天下人・豊臣秀吉。極めてリアリストであった彼にとって、宗教は政治的な意味合いが強かった。しかしどんな人間も、やがては自分自身の死に向き合う日がやってくる。秀吉と宗教をさぐると浮き出てくるのは、死後の極楽往生を約束する阿弥陀仏への信仰と、自らの神格化だった。
京都の地に描かれた壮大な宗教構想「阿弥陀ライン」の謎
秀吉の墓は自らが遺言で墓所に指定した、阿弥陀ヶ峰にあり(豊国廟)、山名は奈良時代の高僧・行基が山腹に阿弥陀如来像(阿弥陀堂)を安置したことに由来する。古くから阿弥陀信仰の聖地として知られており、平安時代の「枕草子」にも「阿弥陀の峰」としてその美しさが記されている。また、この地は平安時代から京都の三大葬送地(火葬・埋葬の地)として知られる「鳥辺野(とりべの)」の広がるエリアであった。当時の人々にとって、死者を葬るこの土地は「現世の終わりと極楽浄土への入り口」であり、阿弥陀ヶ峰は阿弥陀仏の救いを求める場所だったのである。
この阿弥陀ヶ峰について、秀吉の阿弥陀信仰に基づく都市計画が成されていたと主張する説がある。写真家・民俗学者の内藤正敏(1938〜2025)は、阿弥陀ヶ峰(豊国廟)から西へ延びる東西軸上に、豊国社(秀吉を祭る神社)、秀吉が自ら建立した「方広寺」、阿弥陀仏を本尊とする浄土真宗の総本山、西本願寺が配置されていると考えた。
本願寺との関係も深い。西本願寺は秀吉によって現在の場所へ移った。一方で、本願寺内部の後継者問題にも介入し、本願寺顕如の没後、長男の教如ではなく、三男の准如を宗主とするよう命じた。これが後の本願寺東西分裂につながった。
内藤はこの線上を「阿弥陀ライン」と呼んでいる。太陽が東から昇って西へ沈むように、死後「東の阿弥陀ヶ峰」に葬られた秀吉の魂が、西にある大仏や西本願寺の阿弥陀信仰の光に導かれて極楽浄土へ向かうという、宗教的かつ壮大な配置であるという。秀吉は自身の死後、八幡大菩薩として祀ることを望んだと伝えられる。内藤はこの点についても、本地垂迹説(神は仏の仮の姿とする説)において、八幡の本地(神の真の姿)が阿弥陀如来であることを指摘している。おそらく内藤説は公式な歴史学界では認められていないと思われるが、秀吉と阿弥陀信仰の関係の深さがその根底にあることは間違いない。
倒壊した大仏と善光寺阿弥陀仏――秀吉を恐怖させた「祟り」の伝承
「阿弥陀ライン」の「方広寺」は、秀吉が京都東山に巨大な大仏を建立した寺である。だがこれは奈良の大仏に倣った毘盧遮那仏だった。慶長伏見地震(1596年)によってこの大仏が倒壊。秀吉は「自分の身すら守れない仏が、どうして衆生を救えるのか」という趣旨のことを言ったという。その後、夢のお告げを受け、信濃善光寺の本尊・阿弥陀如来を倒壊をまぬがれた大仏殿に移した。あくまで伝承であり史実はわからないが、毘盧遮那仏を阿弥陀仏に置き換えたとされるのは興味深い。毘盧遮那仏は華厳の教父であり、真理を説き、世を照らす仏である。空海は大日如来と同質の仏であるとした。いずれにしろ最高位の仏であるわけだが、華厳思想の象徴という抽象的な要素が強い。言い換えると庶民には敷居が高い、真理の仏である。対して阿弥陀仏は万人を救う、救いの仏である。国家安泰や自身の権威付けに加え、戦乱で命を落とした兵士や民衆への供養の意図もあると読み取ることもできる。この移転から間もなく秀吉は病に倒れた。そして何を思ったか、阿弥陀像を善光寺へ返還。阿弥陀像が善光寺へ戻った翌日、秀吉は死去した。当時の人々はこれを「善光寺のの阿弥陀仏の祟り(祟りによって秀吉は病に倒れ、恐れをなして返還した)」と噂したという。
なお、方広寺は全体としては豊臣秀頼の代に再建したが、火災に見舞われ焼失。再び再建へこぎ着けたが、開眼供養目前に「大坂の陣」のきっかけとなる「方広寺鐘名事件」が発生した。秀吉親子が再三に渡って庇護した寺院が豊臣家滅亡の引き金を引いたのは皮肉としかいいようがない。
往生を願う凡夫から「人々を救う神」へ――秀吉が見せた強かさ
戦国武将というものは、リアリストであると同時に信心深い側面を持ち合わせているものだが、秀吉と宗教の距離は政治的な意味合いの方がかなり色濃い。それでも己の死を自覚するようになると事情も変わってくるようで、宗教を政治的に扱っていた秀吉も、年齢と共に宗教の扱う「生死」の問題から逃れられなくなってきた。「阿弥陀ライン」の着想も死後の極楽往生を願ってのものと見るのが自然だろう。だが秀吉はただ往生を願っただけではない。
先述の通り、秀吉は自身を八幡神(八幡大菩薩)として祀るよう遺言したとされる。そして死後は朝廷から「豊国乃大明神」の神号が与えられた。つまり秀吉は、阿弥陀仏に救われる凡夫でなく、自ら救う側になったのである。これは、やはり極楽往生を願って平等院鳳凰堂を建設した藤原道長・頼通親子にもない大胆な着想だった。自分の死と向き合う中でも、秀吉は彼らしい強かさを見せていた。
栄華も夢の如く――辞世の句に込められたリアリスト最期の境地
秀吉の辞世の句はよく知られている。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
「阿弥陀ライン」で阿弥陀仏にすがったり、「豊国大明神」で自ら神になり家を残そうとするなど、秀吉は独特の宗教意識を展開した。だが、臨終に際しては「自分が築き上げた栄華も、露のように儚い夢だった」という、ある意味最も厳格な現実を悟った。それは、天下人・秀吉のリアリズムが最期に到達した真理であったのかもしれない。
参考資料
■内藤正敏「東京 : 都市の闇を幻視する 内藤正敏写真集」名著出版(1985)
■内藤正敏/松岡正剛「古代金属国家論―霊山、山伏、ミイラ、大仏、そして曼荼羅から日本文化の魂を探る」立東舎(2016)
■小松和彦/内藤正敏 他「日本の秘地・魔界と聖域」ベストセラーズ(1992)
■久世奈欧「近世期京都における豊国大明神の展開」『比較都市史研究』34巻 2号(2015)
■拙稿
・日本史上最高の貴族といえる藤原道長の臨終行事と浄土思想とは
・人災と天災で荒れていた中世に広まった末法思想と極楽寺院への思い

























