死の不安、残された人の悲嘆。これは古来より変わらない大問題である。近代化の波、つまり自然科学の発達とともに、死後の存続や死後世界をめぐる問いは、少なくとも公的な知の世界では遠ざけられていった。それは死に対する防波堤の決壊でもあった。もはや素朴に神や霊魂を信じられなくなった現代、科学でも宗教でもない第3の立場が生まれた。
医療と宗教が届かない「死後生への問い」
死後の不安、特に終末期と直面した患者への対応としては、科学が踏み入れられない領域。宗教・スピリチュアルなどに、プラグマティック(実用的)な価値・役割を見出すことができるだろう。つまり死後の人格、意識の存続である。だが日本では、例えば仏教は死のイメージがあまりに強い。終末期患者に寄り添うビハーラ僧が、病院を訪れると周囲から反発を受けたという話を聞く(円隆寺ブログ)。キリスト教ではホスピスに常駐する牧師・神父であるチャプレンを派遣しているが、日本には根付いていない。そもそも宗教に対する偏見もあり、実際に怪しげな新興宗教が手を伸ばす事例もある。そうした中、いわゆる「心霊科学」という分野が存在する。特定の宗教に偏らず、死後生存を説ける可能性があると考え、探究する立場である。信仰や倫理、道徳や教義といったフィルターを通さず、純粋な現象として霊的世界をとらえる方法論は、信仰には至らないが、死の不安からは解放されない現代人には有効ではないだろうか。
「教義」から「検証」へ――人文学としての心霊学
霊魂や死後の世界を考える場合、必ずしも宗教である必要はない。1923年、後の「日本心霊科学協会」の原型となる「心霊科学研究会」(東京心霊科学協会)を設立した、浅野和三郎(1874〜1937)は、大本教の信者だったが後に脱退し、科学的に探究しようとする方向へ舵を切った。彼が目指したのは、霊魂の存在を「教義」「信仰」として信じるのではなく、霊媒現象や交霊会などの事例を集めて検証する姿勢だった。
「心霊科学」という名称はいかにも怪しげな響きがある。現代では「超心理学(Parapsychology)」の名で継承された部分が多いが、同会は現代でも存続している。もちろん科学的根拠の条件である再現性は無きに等しく、正統派の自然科学からは認められてはいない。かといって特定の宗教でもなく、昨今の「スピリチュアル」とも違う独特な立ち位置である。だがいわゆる「科学的」であること、ありたいとする姿勢にはデメリットもある。浅野は「科学的」であろうとするあまり、物理現象としての霊媒現象や交霊会に傾倒した。しかし再現性を重んじる自然科学の土俵に上がろうとしたことが、結果として世間には胡散臭いショーのように映ってしまう皮肉を生んだこともあった。
また、いわゆるスピリチュアルとの違いでは、心霊科学が「証拠を集めて検証する」ことを是とするのに対し、スピリチュアルは個人の癒しや気づき、体験の意味づけが中心となる。ただし実態はもっと曖昧で、心霊科学の側にも、実質的に信仰に近い側面もある。つまり心霊科学は「科学の作法を借りた、死後生という問いへの世俗的なアプローチ」と言える。この自然科学でも宗教でもない「世俗的だが実証志向」という立ち位置はかなり独特なものといえるだろう。
だが本来「科学」とは、実証的な自然科学のみを指すのではない。人文科学、社会科学もある。その文脈なら「心霊科学」を名乗っても一応の筋は通っている。そして今後は人間の意識や死生観を探求する「人文学(Humanities)」の文脈に立ち、「心霊学」として霊や死後生存を論理的に探求する道筋もあるはずだ。自然科学的な裏付けではなく、「死生観」「宗教学」「文化人類学」などの対象として再評価されてもよいと思われる。宗教でも自然科学でもない「霊を研究する学問」があってもよいのではないだろうか。
傾聴だけでは救えない――布教禁止がもたらすケアの限界
終末期などにおける宗教観の役割を考える場合、宗教者が心のケアにあたる臨床宗教師という立場がある。しかし現状ではかなりの制限がある。彼らは特定の宗教、宗派に偏らず、自身の属する宗教・宗派の布教は原則禁止とされている。そもそも「〇〇教」はあっても、いわゆる「宗教」などという統一された世界観があるわけではない。その宗教師が自身の属する宗教、宗派の世界観や霊魂観を説かずして、何の意味があるのか。少なくとも宗教者が霊の存在や死後生を語る場合、その根拠を自身の宗教的伝統から切り離してしまえば、何を根拠として語っているのかが曖昧になってしまう。
日本臨床宗教師会倫理綱領では、ケア対象者の希望、同意がある場合は教義について話すこともあるとはしている。だが、特定の信仰に拠り所を持たない患者が死の恐怖に直面したときに求めているのは、無菌的な傾聴だけではない。自らの死を意味づけてくれる具体的・実用的な「物語」ではないだろうか。教えを説かず、ただ傾聴するだけなら、宗教者である必然性はどこにあるのか。特定の宗教を奉じる者であるからには、例えば「私の伝統の理解によれば」といった言い方からでも、自らの死生観を誠実に語ることが必要ではないだろうか。
そうでなければ、やはり、宗教のドグマを通さずに霊的世界の実在を探究し、その上に構築された仮説を提供できる、「心霊学」的な枠組みからのアプローチが見直されるべきだと思われる。
悲嘆ケアに寄与する新たな「霊的アプローチ」の未来
心霊科学は近代化する日本にあって確立された、「宗教でも科学でもない」霊的探究の立場といえる。そしてその需要(死者や死後への関心)は、今も消えていない。宗教・宗派を通さない霊的世界の探究は、科学時代における死の不安問題に対応できる、ひとつの立場といえる。現在「心霊科学」また「超心理学」を名乗る界隈は、その方向にはさほど向いていないように思われる。終末期ケア、悲嘆ケアにも貢献できる、霊の研究アプローチの発展を望みたい。



























