生と死の間に何があるのか。少なくとも現代の日本で健康に生活している限り、そんなことを考える機会はない。あえて言えば大病を患ったときか大怪我をしたときだろう。一方、かつての武人、武芸者たちは文字通りの真剣勝負に生きた。「常在戦場」の中で、達人と呼ばれた者たちは神仏を見たり、声を聴くなどの神秘体験に触れ奥義を授かったという。
塚原卜伝の神秘体験
神秘体験が伝わる剣豪、武芸者は数多いが、ここでは、鹿島新当流の祖・塚原卜伝(1489〜1571)とその弟子を紹介する。塚原卜伝は鹿島神宮に一千日参籠し、神託から得て極意「一の太刀(いちのたち)」を悟ったと伝えられている。鹿島神宮の主祭神・武甕槌神(タケミカヅチノカミ)は日本神話でも屈強を誇る武神であり、鹿島神宮は現代に至るまで武士、武道家からの信仰が篤い。そして卜伝は元々鹿島神宮の神職を司る卜部家の出身であった。鹿島新当流には「霊剣呪振乃太刀」(みたまつるぎまじふるのたち)なる怪しげな響きの奥義があるとされる。文献によると実際に敵を斬る技でなく、邪悪を辟(さ)ける、「辟邪(へきじゃ)」の呪術だという。古来より剣や弓には神性が宿るとされてきた。卜伝が極めた剣の先には人や物を超えた存在があったのかもしれない。
斎藤伝鬼房の神秘体験
卜伝の弟子、斎藤伝鬼房(1550〜1587)にも同様の伝説がある。鎌倉の鶴岡八幡宮に参籠した伝鬼房は一人の修験者と出会い、夜を語り明かし実際に立ち合うなどした。その最中に彼の秘剣を悟ったという。翌朝伝鬼房が流派名を尋ねると、修験者は黙って太陽を指さして立ち去った。伝鬼房は霊夢を見ており、彼は八幡神の化身であると信じた。そしてその秘剣を「天流(天道流)」と名付けた。
林崎甚助の神秘体験
居合・抜刀術の祖とされる林崎甚助(1542?〜?)は、父の仇敵を打つために、林崎明神への百か日の参籠を誓い、抜刀を日夜練磨した。そして百か日の暁、夢の中に林崎明神が現れ、抜刀の秘術「卍抜」を授けられ居合の奥義を悟ったという。その後甚助は塚原卜伝に師事し、秘剣「一の太刀」を伝授されたとされる。甚助が神託を得た林崎明神は現在では甚助も祀られ林崎居合神社となっている。
戦いで生まれる意識の変容
剣豪、武芸者の神秘譚・不思議譚は非常に多く、各流派の始祖のほとんどは神憑り的な実力を持つと伝えられている。元々武道・武術と神秘体験、宗教体験は近しい距離にある。山に籠もり禅を組み、ふと開眼して目の前の樹木を一刀両断。などは剣豪小説などによくありがちなシーンだ。禅のストイックな修行が武士に好まれたのは事実であるし、中国の少林拳が少林寺の僧侶が学んだ武術であるのは有名である。スポーツのゾーン体験やラインナーズハイなどは、宗教における神秘体験と近いと思われる。武の道も深まっていくと宗教的な境地に達していくのかもしれない。
そうした神秘体験がある種の変性意識状態だとすれば、現代のスポーツ競技としての武道とは違い、実際に真剣を交わした時代である。意識集中の深度は現代とは比較にならなかっただろう。生死の境にいた武人たちが過酷な修行や真剣勝負の最中といった極限状態に身を置いた時、ふと悟りの境地(変性意識状態)に達した可能性は高いのではないだろうか。
危険なオカルト武術
武道と宗教・神秘体験といった話題は、現代では特に古武道や中国武術など対人試合のない型を中心とした武道に多く見受けられる。こうした分野にはファンタジーが入りやすい。曰く「気の一撃で倒す」「手も触れず投げ飛ばす」などである。中には霊感商法紛いの武道もまかり通っており、こうした「オカルト武術」はしばしば批判の対象になる。自由に打ち合い組み合う試合で、そのようなことができるなら無敗であるし、世界選手権も五輪も思いのままということになる。しかし実際は神秘の武術を謳っている武道家が公の場で実力を証明したことはない。痛い思いをせず楽して強くなりたいと思う心性がオカルト武術が付け入る隙を生む。悟りを得た武芸者たちは漫然と禅定していたら奥義が降ってきたわけではない。肉体をいじめ抜き、生死の境をくぐり抜けたその果てに奥義を悟ったのである。
古の武芸者たちが達した境地とは、実戦における強さというより、深い精神的なものではないだろうか。彼らは真剣の脅威にさらされたとき、あるいは肉体の限界を超えた荒行の果てに神仏の姿を見た。または声を聴いた。それは「死」とは何か、「生」とか何かという、人間にとって永遠の謎に迫る、言葉を超えた何かを体験したのだ。武道に憧れる人は小手先の神秘的に見える技に目が奪われがちである。宗教的な深みを持つ伝統武術とオカルト武術の線引きにはくれぐれも注意が必要である。
武道で死生観を学ぶ
オカルト的な「神技」はともかく、宗教行法として、瞑想行法として、武道の身体操作が効果的なのは間違いない。神秘体験などしなくても、姿勢を正し、礼儀を守る所作を身に付けるだけでも心身を浄化できると思われる。しかしそれだけなら茶や華などの芸事でもよい。武道はさらに「生」と「死」について考える機会を与えてくれる。見方によっては胡散臭くも思える、先人の神秘譚も謙虚に学ぶことで深みを増すことだろう。
参考資料
■「古武道の本 秘伝の奥義を極めた達人たちの神技」学研(2002)
■湯浅晃「武道における宗教性」『武道学研究』38巻3号(2006)
■オイゲン・ヘリゲル著/魚住孝至訳「新訳 弓と禅」角川ソフィア文庫(2015)