死後何らかの形で生まれ変わるとする輪廻転生。私たちが漠然とイメージする転生とは、人間であれ動物であれ、自分が死んだ後の「未来」の出来事だろう。そうした常識を超える「遍在転生」というユニークな死生観を紹介したい。
「私」の謎と死生観
心理学者・渡辺恒夫は輪廻転生を考えるなら、他ならぬ「私」の謎を解かなくてはならないとした。渡辺が説く「遍在転生」論は元々は独我論を克服するための哲学的議論である。独我論とは
「この世界に存在するのは『私』だけであり、世界は『私』の意識に展開される映像に過ぎない」
という考えである。なお、この稿における「私」とは、便宜上このコラムを読んでいる方々の一人称だとする。では、その「私」が死んだ後の世界はどうなっているだろうか。「私」が死のうが生きようが世界はあるに決まっている。そうだろうか。「私」が死んだ後の世界を「私」が知ることは絶対にできない。肉体が滅んで霊魂になったとしても「私」であることに変わりはない。「世界を認識する『私』がいない世界」を「私」が知ることはありえない。「私」が死んだ後の世界の有無は、生きている「私」が想像する以外にはないのである。そして独我論からはもうひとつ、他我問題という厄介な問題も浮上してくる。
「他人は本当に自分のように『心』があって、自分のように思考しているのだろうか」
他人に自分と同じ「意識」が宿っている証拠はない。本当は「私」以外のすべての人間はロボットかもしれない。例え「私」が霊魂になって他人に乗り移っても「私」であることに変わりがない。他人が「私」と呼ぶ何かの存在を知ることはできないのだ。そもそも「私」とは何なのか。すべての人とは言わないが、一度はこういったことを考えたことがあるのではないだろうか。「私」の謎を解かずに「私」の死後がどうなるかなどわかるはずがない。「私」の謎と死生観はここで出会うことになる。
梵我一如
渡辺はインド哲学の正統派ヴェーダーンタ哲学の「梵我一如」の思想を取り上げる。梵(ブラフマン)とは宇宙の真理そのもの。宇宙意識といえばイメージが掴めやすいかもしれない。我(アートマン)は「私」のこと、「私」の意識を指す。「梵我一如」とは「梵」と「我」は同一、一体である状態をいう。有名な例えとして、海にコップを沈めると当然コップの中にも海水が入る。コップの中の水が「我」、この水を含んだ海全体が「梵」である。しかし「我」は「梵」の存在には気づかない。ヴェーダーンタ哲学を完成したとされるシャンカラ(780〜820)は、「私」を個人的な自我だと思いこんでいるのは、「幻(マーラー)」であり、「私」は宇宙そのものだとした。ここからシャンカラは輪廻転生を否定した。宇宙そのものである「私」は死なないからである。個人的自我としての「私」が死ぬように見えるだけで、個としての「私」(アートマン)が死んでも世界は終わらない。そして宇宙そのものなのだから、他人もまた「私」と同じということになる。
ポール・ゴーギャンの代表作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。この問いに対し、梵我一如論はこう答えるだろう。「私はあらゆるとき、あらゆる場所に、いたし、いるし、あるであろうから」
輪廻転生から遍在転生へ
梵我一如論は独我論も他我問題も、そして輪廻転生も超えた壮大な哲学である。しかし渡辺は賛同しつつも、「私」の謎の視点から疑問を抱く。実際に家族や恋人、道行く人もすべて「私」だというのは考えにくい。他人はどうみても他人ではないか(ロボットかもしれないが)。他人は今、ここにいる「私」ではない。渡辺は輪廻転生観を一度認め「遍在転生」という奇妙な転生観を唱えるに至った。一言でまとめるとこのようになる。
他人は「今のこの『私』」と同一なのではない。他人は「私」が転生した姿なのだ。彼も彼女も親も子供もこの世の人間すべてが生まれ変わった「私」である。
普通に考えて生まれ変わりとは自分が死んだ後のことだろう。2023年 7月31日 23時59分に死んだとすれば、同年8月1日の0時00分以降の誰かに生まれ変わると考えるのではないか。しかし、輪廻転生などという現象が実在するなら、私たちが持つ常識的な世界観では計り知れない現象のはずである。何が起こってもおかしくはない。転生が実在するなら「過去に生まれ変わる」「同時代に生まれ変わる」という奇妙ことも十分ありうるのである。過去とはクレオパトラや織田信長の時代とは限らない。自分が死んだ1秒前も過去である。つまり、今目の前にいる人物が自分の生まれ変わりかもしれない。そして転生が何度も繰り返す「輪廻」である限り、同時代、つまり1秒前、2秒前…の世界に生まれ変わっても不思議ではない。道ですれ違った人物は、10年後の「私」が死んだ後の生まれ変わりかもしれない。同時代に転生するとは、今、ここにいる自分以外の人々たちも、この「私」であるということ。この世のすべての人間が自分の生まれ変わりということもありうるのだ。これが「遍在転生観」である。
従来の輪廻転生観は、時間とは過去から未来へ進んでいるという常識的な時間軸の上に成り立っている。非科学的な超常現象であるのに、時間だけは過去から未来へ流れているという世間の常識に則っているのもおかしな話ではある。最新の物理学では時間とは我々の常識通りの流れではないとの議論もあり、人間が死後生まれ変わるのだとしたら、「遍在転生」も十分ありうるのである。現在ラノベやアニメの世界では「異世界転生」が一大ジャンルとして確立している。我々の意識にはこうした発想が埋め込まれているのかもしれない。
オカルトから哲学へ
遍在転生観は「私」の問題を解くための哲学的議論であって、輪廻転生というテーマを扱いながら霊魂やあの世などの存在を考慮しないところがユニークである。かなり突拍子もない印象を受けるが、哲学者・三浦俊彦との論争などはかなり興味深い。渡辺はこの思想が定着することについて「前途は厳しい」と言っているが、死生観の新たな1ページとして今後の展開を期待したい。
参考資料
■渡辺恒夫「輪廻転生を考える 死生学のかなたへ」講談社(1996)
■渡辺恒夫 他「人文死生学宣言 私の死の謎」春秋社(2017)