死後、極楽往生を説く浄土信仰が盛んになった同じ時代に「死後の世界」を救ってくれるという信仰があった。遥かな未来の世で衆生を救うために、今も修業している未来仏・弥勒菩薩である。

未来仏 弥勒菩薩
弥勒菩薩(マイトレーヤ)は仏教が説く仏天の中では阿弥陀如来や不動明王らと並びよく知られている。弥勒菩薩は五十六億七千万後の世に衆生を救うために下り立つ未来仏とされている。そのために兜率天という天界で修業している。兜率天は6段階ある天界のうち上から3つ目に位置する。兜率天の下の3界はすぐ下が人間界でまだ欲望に浸かっている段階。逆に上の2界は悟りに近く人間界からは遠い。地上を救うために修業するには最もバランスが取れた世界であるようだ。菩薩とは悟りを開き如来になるための訓練生だが、実はいつでも悟りを開けるのに衆生により近くあるためにあえて如来にはならない。その中でも弥勒は今、ここすぐの救いではなく未来の世を救うのが使命である。仏になることは確定なので弥勒仏とも呼ばれている。
2つの信仰
弥勒仏を説く経典は大きく「上生経」「下生経」に分類される。前者は弥勒が修業している兜率天の様子や説法を説き、後者は弥勒がこの世に下り立ったときの様子を説く。弥勒菩薩のイメージとして定着している、いわゆる未来仏は後者で説かれるもので「弥勒下生」という。しかし五十六億七千万年はあまりに遠い。そこで自身の死後、こちらが兜率天に昇って修業中の弥勒の下でその日を待ち、下生の時に弥勒と共に地上に下り立つことを望む人々がいた。これを「兜率天往生」という。弥勒をめぐっては、死後は兜率天に昇ることを望む「弥勒上生信仰」と、五十六億七千万年後に弥勒に救われることを望む「弥勒下生信仰」が並ぶ。
下生信仰と世紀末
弥勒が遥か未来に地上に下り立ち衆生を救う下生信仰の物語は、キリスト教の「最後の審判」に似ている。最後の審判のイエス・キリストは再臨して全人類を天国と地獄に振り分ける過激派だが、弥勒は救済の説法を行う穏健派である。弥勒下生信仰は末法思想が席巻した中世において盛んになった。興味深いのは近世で1867年(慶應3年)江戸時代終焉の年に弥勒ブームが訪れた。下級武士や現代人には日本の夜明けであっても、当時の庶民にとってはこれまでの価値観が破壊された、先の見えない不安な時代だった。彼らは不安な社会の下で未来仏の出現を願った。そして1980年代〜90年代。世紀末ブームの最中、人類滅亡を回避する救世主が現れるという予言が跋扈した。その有象無象の救世主の中には「マイトレーヤ」と呼ばれるものあった。実際に「最終解脱者」など、自称救世主があちこちから現れた。今も昔も弥勒下生信仰は社会的な不安の受け皿になっている。
兜率天往生と浄土信仰
弥勒下生信仰は不安な社会情勢に対する願いの形だったが、弥勒上生信仰は個人の死生観に関わる問題である。上生信仰の要は兜率天往生だが、往生と聞くと極楽往生を連想する向きも多いだろう。中世の日本では兜率天往生の弥勒信仰と、極楽往生の阿弥陀信仰が並立し時に混じり合った。浄土信仰を奉じる側にとって弥勒信仰はライバルだったはずである。死後のガイドブックといえる「往生要集」を書いた恵心僧都源信(942~1017)は、五十六億七千万年は長すぎる。その日までどれだけ輪廻転生の苦しみが続くのかと未来仏信仰の弱点を突いている。その後、法然、親鸞らの活躍により浄土信仰が大いに普及した。法然は兜率天について、この世との距離においては十万億土と言われる極楽浄土より近いが、人との距離では極楽の方が近いと極楽往生の優位を説いている。阿弥陀仏は人が死去する直ちに極楽へ往生させてくれるからだ。兜率天往生を説く上生信仰は浄土信仰の中に埋没していった。
それでも兜率天往生は中々の発想である。下生の日が遥か未来なら待つよりこちらから行けばいい。死後、その日まで修業の場に一緒にいてその日に一緒に下りていく。まさにいいとこ取りである。なお、下生信仰の方は浄土信仰と混じり合い、死後直ちに極楽に往生し下生の時を待つ。そしてその時に弥勒と共に下生するという混合信仰が生まれた。これは兜率天往生が極楽往生に名を変えただけという気もする。いずれにせよ、未来まで待てない。今、この苦しみから逃れたい。そんな人間の弱さを感じる。そして同時に、源信の指摘をあっさり超えてしまったいいとこ取りは、世を生き抜く衆生の強かさも垣間見ることができる。
未来=死後はすぐそこに
弥勒菩薩は未来仏ということでどことなくスマートなイメージがある一方、これといった功徳が分かりづらい。交通安全や受験合格、家庭円満などを祈願しても叶うのは五十六億七千万年後では遠すぎる。しかし私たちは5分後にコロリと逝くかもしれないのに、自分の死を遥か未来のものだと考えてはいないか。長く感じる夢も目覚めれば一晩のものだと気づく。案外自分が死んだ直後、五十六億〜などとっくに過ぎていて目の前に弥勒がいるかもしれない。
参考資料
■松尾剛次「葬式仏教の誕生」平凡社(2011)
■雲井昭善「弥勒信仰における韓・日の比較」『比較思想研究』22号 比較思想学会(1995)