日本仏教は在家仏教と言われる。出家と言いながらも本当の意味で出家生活をしてる者はほとんどいない。国内ではたんに僧侶になることを出家と捉える人も多いのではないか。そうした既存の仏教界の欺瞞を鋭く批判し、仏教本来の道を追究せんとする河口慧海の情熱は地の果てチベットにまで及んだ。
河口慧海の生い立ちからチベットに渡るまで
河口慧海は慶応2年(1866)1月12日、和州堺(現:大阪府堺市)に生まれた。21歳で哲学館(現:東洋大学)に入学。井上円了(1875〜1949)が創立した哲学を学ぶための私立学校、哲学館は多くの異才鬼才を輩出している。河口慧海もそのひとりだった。24歳で黄檗宗の僧として出家し「慧海」の名を得て、東京・本所の五百羅漢寺の住職となる。しかし寺での法事などの雑事で、研究と修養ができない環境に嫌気がさし寺を出た。一切経を読破したという河口慧海は仏教経典に対して大いに疑問を抱く。日本仏教における経典は中国で訳された漢訳のものが使用されている。インドで生まれ中国にもたらされた仏教は、鳩摩羅什、玄奘三蔵らによって漢訳された。しかし直訳というわけではない。中国にはない「空」の概念を老荘思想の「無」と同義であるとされるなど、紆余曲折を経て独特の教義に変化するものもあった。日本に伝来したのはインドの原始仏教とは異なる中国仏教だったのである。河口慧海は漢訳経典の源流を求めた。しかしインドではすでに仏教は絶滅している。河口慧海はサンスクリット原典から忠実に訳された経典、さらに原典そのものまであるとされるチベットへの入国を志した。
河口慧海、チベットへ
河口慧海は日本人として初めてチベットに入国、滞在した人物である。当時チベットは鎖国政策をとっていたが、国境の守備を避けるためネパールを超え西側から入る迂回路を取るなどし、明治33年(1900)決死の入国を果たした。明治30年(1897)に日本を出国して以来、3年間を要した。チベットでは日本人であることを伏せ、学僧として厳しい戒律の下で修行に励んだ。チベットの最高階級である僧侶になるのは容易なことではないが、時の法王ダライ・ラマ13世に謁見するまでになった。しかし日本人であることが露顕しそうになり出国。10年後に再びチベットを訪れた。河口慧海はサンスクリット語仏典、チベット語仏典を初め、仏像仏具、植物標本などを持ち帰り、一連の記録である「西域旅行記」はその民俗学的価値が高く評価されている。
日本仏教を批判した河口慧海
河口慧海の名は日本人として初めてチベットに入国した探検家であり、名を知る者にとっては近代の三蔵法師といったイメージが強い。しかし河口慧海は本来探検家ではなく仏僧であり仏教学者である。チベット探訪の目的は仏教の原点を求めてのことだった。帰国後、河口慧海は還俗し「在家僧」を宣言。大正15年(1926)には主著「在家仏教」を著し、従来の日本仏教を批判した。
日本仏教批判と在家仏教運動
河口慧海は日本の僧侶は衣・食・住とも世の人々より贅沢な暮らしをし、出家と言いながら不飲酒、不肉食など在家が守るべき五戒すら守っておらず出家の資格などない。これでは世の人々の規範にはならないと指弾し、現代において本当の出家僧などは存在しないとまで言う。さらに河口慧海は天台宗、真言宗、日蓮宗、禅、浄土など、日本仏教の教義が本来の釈迦仏教からいかに乖離しているかを、サンスクリット原典などの読解を基本に文献学的にその誤謬を指摘し、戒律を重視する釈迦仏教に帰るべきであると主張した。その釈迦仏教の担い手は、戒律を守らず、そもそもの教えも誤謬だらけの自称出家僧ではない。在家の者が家業に励みながら、在家の戒律・五戒を堅持する生活の中で実現するものだとした。そうした生活の果てに人々は菩提心を得ることができ菩薩となり、世の中が浄化されていくことを期待した。
躍動する在家仏教団体
河口慧海の在家仏教運動は彼の死後はさほど盛り上がることなく終わったが、彼の出家から在家への思想は大きな潮流となった。特に日蓮系の在家集団の動きはめざましく、長松日扇(1817〜90)の本門仏立講、田中智学(1861〜1939)の国柱会、西田無学(1850~1918)の在家仏教思想など、それぞれ独自の在家仏教運動を展開した。それらは現代における創価学会、霊友会、立正佼成会など新宗教にもつながる。彼らの活動はカルト的な印象をもつ者も多く批判の対象にもなりやすいが、一方で地域コミュニティに深く密着しており、こちら側が参拝に赴かない限り、縁遠い距離のある既存の寺院より遥かに身近な存在でもある。
河口慧海が見据える未来とは
慧海にとって本来の仏教の基本は戒律の堅持にあった。日本仏教が飲酒、肉食、妻帯などで批判されるのは現代でも変わらない。(自称)出家僧と庶民との距離も縮まる気配もないようだ。本来「死穢」として忌み嫌われた死体の供養を進んで行った僧たちに由来する「葬式仏教」が、高価で派手な袈裟を着た「坊主丸儲け」の生業と堕してしまった状況において、「本来の仏教」とは何かは中々見いだせない。慧海の「在家仏教」の思想は昔も今も仏法の本義を忘れた僧侶たちを指弾し続けているのである。
堺市の南海電鉄・七道駅前には、荷物を載せた2頭の動物を連れている河口慧海の銅像がある。銅像の慧海の目は地の果て、そして未来を見据えているようにも見える。その未来が現代の状況ではあまりに寂しい。既存の寺院、僧侶たちには、地の果て、遠い未来とは言わずとも、地域の迷える人たちに自ら目を向けて欲しい。
参考資料
■河口慧海「在家仏教」世界文庫刊行会(1926)
■元山公寿「河口慧海の在家仏教」『現代密教』第13号 智山伝法院(2000)