神奈川県川崎市宮前区宮崎にある「川崎市青少年の家」の正門から左側をずっと歩いていくと、「お化け灯籠」と呼ばれる巨大な灯籠がある。
これはもともと、江戸時代には萩藩・毛利家の下屋敷だったところに、1874(明治7)年から東京・赤坂檜町(ひのきちょう、現・東京ミッドタウン)に設けられた陸軍の東京歩兵第一聯隊に置かれていたものだった。
東京の赤坂にあったお化け灯籠が現在の場所に移転したのは太平洋戦争の翌年
太平洋戦争(1941〜1945)の翌年、現在の青少年の家を含む、現在の川崎市宮前(みやまえ)区の宮崎・馬絹(まぎぬ)・梶ヶ谷・向ヶ丘(むかいがおか)・土橋(つちはし)・菅生(すがお)、高津区の作延(さくのべ)、そして横浜市緑区美しヶ丘(うつくしがおか)まで、およそ250ヘクタールに及ぶ土地が陸軍に接収された。殊に宮崎の場合は、満州に似た高台の地形であったことから、召集兵を集め、短期間の軍事訓練を行う駐屯地を設営するためだった。その際、後に改称された、赤坂の陸軍第101連隊(東部62部隊)だけでなく、灯籠も一緒に移転し、新しく建てられた将校集会所のそばに置かれた。灯籠そのものは、毛利家ゆかりのものだったのか、軍の施設となってから置かれたものなのかは判然としないが、「お化け灯籠」という呼び名がつけられていたのだ。
「お化け灯籠」という名前の由来
言い伝えによるとその灯籠は夜な夜な、赤坂や六本木を徘徊していたという噂が立っていたことから、移転の際に、灯籠の土台、そして土台から伸びた柱状の竿などの「下半身」を地中に埋めた、または切り落とした、だとか、移転後も近在を徘徊することから、急遽、竿などを地中に埋めた。更には、ここから出征して行った兵士を乗せた輸送船が魚雷攻撃を受けて沈没した後、灯籠が真夜中に歩き回り、兵士たちに向けて大声で「帰って来い!帰って来い!」などと叫んでいるという噂が立ったことから、灯籠が歩けないように土で固めた…という。実際のところはわからないが、70年以上も「下半身」がないままの「お化け灯籠」は、取り壊されたり、撤去されたりすることなく、現在も青少年の家の片隅で、「歩き回る」ことが叶わぬまま、じっとしている。
灯籠とは神仏のために灯明をともすためのも
そもそも「灯籠」とは、神社仏閣で、神仏のために灯明(とうみょう)をともすのに用いられていたもので、仏教伝来と共に日本に伝わった仏具の一種である。「お化け灯籠」のような石造りのものは、正式には「石灯籠」と呼ばれている。平安時代以降から、寺院ばかりでなく、神社にも取り入れられた。その後、寺社のみならず、高位の貴族や武士、そして富裕な商人などの自宅の庭園を彩るようになり、今日では、全国各地の庭園や老舗旅館・料亭などにも置かれ、「日本的な風情」を表すオブジェにもなっている。石灯籠にもたくさんの種類があるが、川崎の「お化け灯籠」のように、形を整え、装飾を施さず、自然の形を活かした荒々しい形のものは「野面(のづら)灯籠」と呼ばれる。
石でできている「無生物」であることから、言うまでもなく、灯籠が歩き回ったり、声を出したりするはずがない。灯籠の「頭」の部分の笠や、本来火を入れておく「火袋(ひぶくろ)」部分が普通のものよりあまりにも「大きい」ことから、「お化け」と呼ばれており、それに「似合った」噂話が広がっていったのか。
お化け灯籠の逸話
この灯籠がまだ赤坂にあった1921(大正10)年12月に、映画監督の五所平之助(1902〜1981)が慶應義塾商工学校を卒業した19歳の時、父親の勧めで東京歩兵第一聯隊に入営した。その頃、松竹映画の『船頭小唄』が流行っており、六本木にあった映画館から毎夜聞こえてくるジンタ(音楽隊)の音色に五所は、「囲みの中にいる兵隊の悲哀を切なく味わった」と、後に述懐している。
不思議なことに、灯籠が赤坂にあった頃は先に挙げた噂話は存在せず、川崎に移ってから聞かれるようになったというが、もともと農村地帯だったところに、いきなり「兵隊」たちが有無を言わさず占拠し、その兵隊たちにしても、みんながみんな、積極的に「お国のために」身を捧げるべく入営したとは限らず、「死にたくない」「家に帰りたい」、そして五所平之助のように、囲みの「外」を思い浮かべながら、「自由になりたい」…と思っていた人々も少なくなかったことだろう。そうした時、施設に置かれている「お化け」のような灯籠はかつて、赤坂や六本木を夜、自由に歩き回っていた。しかし「お上」におよって、歩き回れないように、自分たちと「同じように」自由を奪われる格好で、「下半身」を切り落とされたり、土の下に埋められたりした、というように、兵隊たちや地元の人々が話を「作った」のではないだろうか。
最後に…
人類の歴史において、明るく輝かしい「過去」も多く存在するが、戦争に限らず、人が生きているこの世から、どんなに科学技術が発達しても、地震・台風・干ばつ・疫病の流行などの災厄から、人は決して逃れることはできない。それゆえ、暗く沈鬱な「過去」も同時に存在する。漫画やアニメのモデルになったりするような、人間の心の支えとなる、楽しくてかわいらしい「お化け」ばかりでなく、怖い「お化け」の存在。そしてそのお化けの「怖さ」を形づくる社会背景や存在意義についても、我々は目を背けてはならないのだ。
参考資料
■五所平之助「兵営で聞くジンタ」ノーベル書房編集部(編)
■『写真集 わが聯隊』1978年(108頁)ノーベル書房
■伊東太作「灯籠」下中邦彦(編)『平凡社大百科事典 10』1985年(733-734頁)平凡社
■加藤善清『みやざきの里 川崎歴史散歩』1986年 昭和書院
■総合佛教大辞典編集委員会(編)『総合佛教大辞典 下』1987年 法藏館
■川崎多摩歴史研究会(編)『かわさき散歩 道と川と山の歴史をたずねて』2003/2005年 21世紀川崎教育フォーラム
■「第1回 川崎市地域文化財に、2点が決定しました」『みやまえ・東部62部隊を語り継ぐ会』2018年12月18日
■「写真でひもとく街のなりたち:東京都 麻布・赤坂 『陸軍の街』とその後の発展」『三井住友トラスト不動産』
■「名所旧跡 −宮前区−」『川崎市』
■「お化け灯籠」『川崎市教育委員会』
■「川崎36景 第29景 お化け灯篭」『まいぷれ』
■「神奈川 お化け灯籠」『日本伝承大鑑』