天気の良い日の墓参りは気分の良いものである。青い空に白い雲がたなびき、心地よい風が吹く。墓石に水をかけ、元気な姿を見せて近況を話せば、在りし日の風景が甦る。科学的に言えば目の前にあるのはただの石であるが、私たちにとってはただの石ではない。大切な人が今も生きている場所である。そこには「非科学的」な世界が広がっている。
優劣の構図で語られがちな科学と非科学
コロンビア大学の研究者が女性は男性より「おまじない」や「迷信」など、非科学的・魔法のような物事を信じる傾向があると指摘しているとの記事(gigazine 2020年06月18日配信)が掲載された。大学で女性は男性より非科学的なものを信じる傾向にあるという内容であった。
この場合の「非科学的」な領域とはこの記事でいえば、幽霊や魔法、迷信など、科学が否定するオカルト的な分野を指す。それはそれで興味深いテーマではあるが、筆者が問題としたいのはそのことでなく「非科学的」という表現である。
科学的・非科学的とは
このニュースに対してネットでは、女性が男性より劣っているというような差別的な発言が目立っている。記事ではこの調査において「女性は男性より非科学的である傾向にある」という結果が出たというだけで、女性が男性より劣っていると書かれているわけではない。しかし現代社会において「非科学的」という表現は、科学ではないという端的な事実以外に、その対象(この場合は女性)のマイナス要因として認識される。また「科学的」とほぼ同義語に「論理的」がある。科学とは論理と実証の積み重ねであるからだ。昔から男性は論理的、女性は感情的などと言われてきた。このステレオタイプ的区別も明らかに女性への侮蔑が籠もっている。
「感情論」という言葉も良い意味で使われることはほとんどない。例えば死刑制度の賛否を問う論争では、被害者感情を理由に死刑を容認する主張に対して、感情論である、非論理的であるとの反論を受ける。論理的・科学的態度は絶対的正義であるかのようだ。ではそもそも「科学的」とは何なのか。
論理で実証できるかどうかが重要だという考え方
20世紀初頭に科学とは何かとの問いに厳格に答えようした学派があった。論理実証主義という、ウイーンの哲学者のグループが中心となったもので、ウイーン学派とも呼ばれる。彼らの主張は結論からいえば「検証不可能な命題は無意味」であるとする「検証原理」である。
a「月の裏側には宇宙人の基地が存在する」
b「神は人間の運命を支配している」
この場合、どちらも言わんとする事はわかるが、命題として成立するのはaだけである。aは内容としては荒唐無稽であっても、月の裏側を調査できる技術が開発されれば基地の存在の有無は検証できる。対してbの命題は検証のしようがない。つまり言葉としては通じるように見えるが意味がない。
論理実証主義は非科学を否定し排除しようとした
注意したいのは、bの命題を「否定」しているのではない。そもそも「意味がない」と言っている点だ。無神論者は神など存在しないと主張する。つまり神の存在の有無を論じている時点で、「神の存在の有無」という命題を認めている。有神論者と同じ土俵に立っているわけだ。一方、論理実証主義はそもそも命題として成立していないとする。神の有無以前に、赤ん坊の発する「アブアブ」などと同等の単なる音声と同じレベルということである。論理実証主義者はこの調子で次々と無意味な命題を削除し、科学と非科学的なものを厳格に分離した。そして神学や形而上学といった検証不可能な学問を、非科学的な偽の学問として徹底的に排除しようとしたのである。
論理実証主義は様々な欠点が指摘され、現在では科学史の1ページに過ぎない。しかし、科学とは論理と実証であるとの基本テーゼと、科学と非科学を明確に分けるべきだとする姿勢に大きな誤りはないと思われる。そして必要なのは双方の棲み分けであり、非科学的なるものを劣っているとみなす態度ではない。
「非科学=くだらない」という主張こそ非科学的
現代社会は科学的なるものと非科学的なるものを分ける過程で、非科学的なるものを見下す風潮が形成された。私たちの社会で「非科学的だ」と表現する時は「バカバカしい」「くだらない」と言いたいわけである。しかし、バカバカしいとか、くだらないなどの主観的な価値判断を付与することが科学的な態度といえるだろうか。検証原理に照らすなら「非科学的であることはバカバカしい」との命題は、主観的な価値判断が付与されている点で無意味な命題である。科学的に無意味な命題を振りかざして見下す態度は、実は非科学的な態度、非論理的な態度なのである。
非科学をバカにする「非科学的な態度」の危うさ
こうした「非科学を貶める『非科学的な態度』」は簡単に反転してしまう危険性も内包している。オウム真理教の理系エリートは科学的世界観に固まっていたからこそ、瞑想による神秘体験によって科学を超える、非科学的な驚嘆し教祖に回心してしまった。最初から非科学的な世界を認め、共存していればまた違った結果になったかもしれない。日頃から寺や神社に親しみ、朝夕仏壇に挨拶をする「非科学的な生活」はすでに珍しくなっていたのである。
逆に、非科学的世界に没頭する人間は科学を見下す傾向にある。カルト宗教や怪しげな民間療法に傾倒し、現代医学の治療を拒否して返って命を縮める人の話はよく聞くところである。また、災害時における風評被害は、科学的な根拠より感情に流され理性を失った人があらぬ噂やデマをかくさんしたり、それを容易く信じてしまったりするものである。両者は同じカードの裏表に過ぎない。
科学と非科学に優劣はない
科学的、論理的を自称する人でも「死者に敬意」「生きている者のため」などの表現で説明する人もいる。いずれにせよ、人間の感情は脳内の電気反応に過ぎないなどと言いながらも、やはりそれだけでは割り切れない何かがあるのだ。もちろん科学の世界も素晴らしいものである。オイラーの等式は「世界一美しい数式」、特殊相対性理論の数式は「世界で最も美しい方程式」などと言われている。科学・数学の高みは美しさという、やはり理論では割り切れない「非科学的」な感情で満ちている。
死者の魂を弔い、盆や彼岸には彼らを迎えに、または会いに行く。科学時代においてなお、私たちは非科学的な日々を過ごしていく。優劣をつけるのはやめようではないか。