大切なひとが事故に遭い、帰らぬ人となるかもしれない──もしそんな状況に陥ったら、あなたは何を考えるだろうか。無事であるよう神に祈るかもしれない。はたまた、延命できることを期待するかもしれない。もし失ってしまったら、もう一度生き返ってはくれないかという想いを抱くことだろう。しかし、その運命は自分ではどうにもならないものだ。生きている限り、このような苦しみを受け入れなければいけないことはあるものだ。だが、人間はそんな「どうにもならない運命」を科学や医学を駆使して、さも当然のように抗ってきた。
神話において生老病死に抗った者の末路
アスクレピオスという人物をご存知だろうか。彼はギリシャ神話において名医であると語られている。WHOのシンボルである蛇が巻き付いた杖は彼が持っていたものだとされる。
アスクレピオスは賢者ケイローンのもとで育ち、彼の医術はやがて死者すらも蘇らせる境地に達した。しかし、それを気に入らない者もいた。冥界の王ハデスとゼウスだ。
人間が生老病死を乱すことは神の領域をおかすこと。それを良しとしなかったゼウスによって、アスクレピオスは撃ち殺されてしまったのだ。
現代では必然的に生老病死に抗うことになる
生老病死とは、生きる上で自分の思うようにならない苦しみのことだ。この言葉の由来である仏教では、生きること自体が苦しみだというほど、生きるということは思うようにならないとされている。しかし、現代の科学や医学により、その「苦しさ」はかなり薄れている。
たとえば、自然に老いて死ぬという時間の流れを、治療することで年単位で引き延ばす。たとえば、一度心臓が止まっても、心肺蘇生により息を吹き返そうと試みる。現代ではそれが普通のことだ。人が死に直面しようとするその瞬間、その死に抗おうと手を尽くす。だが、どうにもならない「死」をコントロールしようとするのは、よくよく考えると恐ろしいことではないか。
生物である以上、生老病死には抗うのは当然なこと
人間が生老病死に抗うことを少し否定的に書いてきたが、生物全体に目を向けてみれば、また違った見え方もできる。そもそも生物の進化は、今までの身体では今の環境を生き抜くことは難しい、というところから始まっている。
「生きる」という苦しみに適応するために、生物は本能的に学ぶのだ。外敵に食べられまいと、自然に擬態したり、身体に毒を蓄えて生き抜く虫たち。極寒の吹雪を生き抜くために、身体を寄せ耐える皇帝ペンギンのヒナたち。つまり、人間が生老病死に抗うのは当然のことと考えても良いだろう。
現代のありようを神は許すのか
科学や医学などの学問というものは、人間が生きる上で避けられない苦しみに対する挑戦だ。人間が本来持ち得なかったものを司るギリシャ神話の神々が見たら、何を感じるのだろうか。おそらくただでは済まないだろうが、興味をそそられてならない。