新型コロナウイルス感染拡大により日常生活が大きく制限される状況は、人間の負の本性を浮き彫りにさせた。一方で人間の善意を感じさせる事例も多く伝えられた。人間とは「悪」なのか「善」なのか。
人は窮地に本性を表す
今回の騒動で人間の弱さ、醜さが剥き出しになったと思わざるをえない出来事が多発した。騒動の初期の段階でトイレットペーパーやティッシュペーパーが店頭から消えたことは記憶に新しい。ネットのデマが拡散し希少品となった物品の買い占め行為が多発したのである。またマスクや消毒液などの転売、給付金狙いの詐欺。スーパーなどの従業員に対してマスクの在庫を強要するなど目を覆いたくなるような行為が散見されるようになる。ついには医療従事者、感染者の家族に対する偏見と差別が伝えられるに及んだ。最近では営業自粛に反する飲食店(ほとんどが言いがかりである)に罵詈雑言を書いた貼り紙をするなど「自粛警察」と呼ばれる卑劣な行為も生まれた。
こうした人間の負の部分が浮き彫りになる報道がされるたびにネットなどでは、「人間の闇」「人間が一番怖い、醜い」「人間なんて所詮云々」などと人間そのものに絶望する声があがった。確かに「人間の本性悪なり」と言いたくなる気持ちは理解できる。極限状態に置かれた人間の狂気。それも人間の一面であることは確かである。しかし、ウイルスに未来を奪われた人たちや、残された遺族に対して痛ましく思う気持ち。寄り添ってあげたいと思う気持ちに、人間の善意を見ることはできないだろうか。
無念の死に対する人間の善意
新型コロナウイルス感染のために亡くなった著名人。志村けんさん、岡江久美子さんをめぐる報道で私たちに突き刺さったことがある。感染防止の見地から家族が最後を看取ることができないという事実である。志村さんの御遺族が、臨終にも火葬にも立ち会えず、遺骨になってから初めて志村さんと対面できたという報道は国民に衝撃を与えた。また、岡江さんの夫・大和田獏さんは、感染防止のため葬儀関係者が玄関先にいったん置いた遺骨を引き取り、遺骨を抱えて報道陣に応対。マスクをつけた大和田さんからは無念の思いと感染症の恐ろしさが伝えられた。
死に顔も見ることが出来ず、火葬にも立ち会えない。最後の別れも出来ず、遺骨となってやっと会うことができる。朝に紅顔ありて夕べに白骨となるというが、入院から遺骨という流れは遺族にすればあまりに突然の出来事に近い。感染症のことを考えたことはなかった私たちの多くは、この事実を知った後、遺族を悼む声が多かった。
私たちには間違いなく未来を奪われた死者の無念を悼み、家族を看取れなかった遺族の悲嘆を慮り涙する心がある。私たちにできることはないだろうか。せめて寄り添うくらいしかできないけれど。そう思うことのできる心がある。
浄土宗が出した葬儀のガイドラインとは
火葬、通夜、告別式などの一連の流れは、遺族が家族の死を受け入れる段階的なプロセスとしての役割が大きい。それが通常通り行うことのできない、こうした状況の中で浄土宗が法要に関するガイドラインを取りまとめた。
「新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、法要に際して僧侶が配慮すべきことをまとめる動きが仏教界で相次いでいる。ウイルスによる感染症で亡くなった場合は通常通りの通夜や葬儀が難しいことも想定されるためだ。感染予防を徹底しつつ遺族の心情に寄り添い、差別や風評被害が起きないよう留意を求める宗派が多く、突然に『最期の別れ』を迎える遺族をどう支えるかの模索が続いている。
浄土宗は4月上旬、全国約7千の末寺の僧侶に向けて葬儀や法要の際の指針となるガイドラインを発表。『火葬後葬になった場合にも、火葬前葬と同様の方法でご遺骨の前で枕経・通夜・葬儀を営むことをお願いします』と呼び掛けている。
ただ、通常とは違う形の看取りや見送りとなるため、僧侶の間でも戸惑いは大きい。ゆっくりと別れを惜しむことが難しい場合、遺族が死を受け入れるプロセスにどう寄り添うか。全日本仏教会は、感染防止のための衛生対策に尽力したうえで遺族の意向を尊重し、気持ちに寄り添った対応をするよう加盟団体に求めている」(「新型コロナで突然の別れ…遺族に寄り添う葬儀とは 仏教界、感染防止と両立へ模索」京都新聞 デジタル版 5月19日 11時34分配信より抜粋)。
人間とは「間」の存在
結局人間は神(仏)と悪魔、どちらでもなく、どちらにもなりうる。という当たり前の結論になる。パスカル(1623〜62)は「人間は神と悪魔の間に浮遊する」と言った。仏教が説く「六道」の中の人間界(道)は、天界でも地獄でもない不安定な世界とされている。
岡江さんに関しても、多くの人たちがその死を悼み、遺族に同情する一方で、岡江さんの息子を名乗り、動画の再生回数を増やそうとした不届きな者が跋扈した。そして、そのようなことをやる人間に多くの人が憤った。この神と悪魔の天秤に揺れる姿、善と悪の「間」に立つ存在が人間というものなのだろう。元々弱く不安な存在であるが、頑張って日々を生き、できれば今より向上したいと願いつつ、誘惑には負けることが多い。この辺りが大体の人間像ではないだろうか。負の部分を目の当たりにしたからといって、ことさら絶望したり卑下することもないだろう。
その上で、やはりどちらかといえば善意が上回っていると思いたくなる。どれほど疲れきっても、悼む、寄り添う、という、何の得にもならないことを私たちはやめないからである。