嫌いなにおいは「人それぞれ」であるのは言うまでもない。今日では各世代、そして全世代に対応できる体臭・口臭予防/消臭グッズなどが十分過ぎるほど、市場に出回っている。ネット上の情報も大量だ。そうしたことから、自分、または周りの誰かが「臭い」こと、そして自分だけでも「臭くならない」ようにと、過剰なまでに意識している人々も多い状況でもある。
においの感知と判別のメカニズム
我々はどうやってにおいを判別しているのだろうか。まず、何かのにおいの中に含まれる「におい分子」と言われる、数十万種類に及ぶ低分子化合物が人間の鼻に吸い込まれると、鼻腔上部にある粘膜・嗅上皮(きゅうじょうひ)上に分布する嗅繊毛(きゅうせんもう)がそれを感知する。すると嗅細胞に電気的な反応が起こり、においが脳に伝わる。
その後、におい分子の種類に応じて「嗅覚受容体」が反応する。更にそれは大脳辺縁系に伝達される。そこでにおい分子は視覚や聴覚とは異なり、いち早く、本能や情緒、記憶を司る扁桃体(へんとうたい)や海馬(かいば)にキャッチされる。そのため、瞬時に我々は、我々の育った環境や経験によって培われた、喜怒哀楽、快不快の感情を呼び起こし、それらと結びつくことから、「好ましい」「おいしそう」「不愉快」「吐きそう」…などの判断を下しているという。
それゆえ、「嫌いなにおい」か否かの価値判断は、必ずしも先天的なものとは限らないという。その人の置かれた環境や人生経験によって、「嫌いなにおい」が「好きなにおい」になること、そしてその逆も十分にあり得るようだ。
明治時代に来日したイギリス人のにおいに関するあるエピソード
例えば、「におい」を「におい」で誤魔化すのではなく、今日のように化学的に何とかするグッズなどが全くなかったことから、確実に現代よりは「臭かった」はずの、明治時代半ばの日本を訪れたイギリス人の東洋学者、エドウィン・アーノルド(1832〜1904)は自身が目にした日本人の清潔さを称賛し、不快さを感じさせないばかりか、その体臭はレモンゼラニウムに似た香りがすると指摘していた。今となっては、当時の日本人全てがレモンゼラニウムに似た香りを体から漂わせていたかどうかを確かめるすべはないが、アーノルドが育ったヴィクトリア朝のイギリスでは、部屋を芳香で満たすために、各種のゼラニウムを家のまわりに植えていたという。ゼラニウムの香りが当時のイギリスの人々にとって、「いいにおい」と見なされていたからこそ、わざわざそのようなことをしていたのだ。そして当時の日本社会や日本人の体から漂っていた何かの香りがそれに似ていたことから、アーノルドの人生経験が脳内で結びつき、「いいもの」と認識されたのであろう。しかしゼラニウムではなく、「スカンクの臭い」によく似たにおいを発するというアメリカミズバショウを、当時のイギリスの人々が「好ましいもの」として、家の周囲に植える習慣があったとしたら、日本人の発するにおいは、アーノルドにとっては不愉快なもの、場合によっては「吐き気を催す」ものとして記憶に残ったはずだ。
特定の条件を満たしたときに発さられるにおい
とはいえ、人間が本能的に恐れ、日々避けようとしているものは、何といっても「死」である。その「死」を連想させるもの、例えば赤ちゃん〜幼児〜児童〜ティーンエイジャー〜青年…よりは相対的に「死」に「近い」状況にある中高年の人々から発する「加齢臭」、そして「老人臭」、更に「介護臭」。または、性別や年齢を問わず、長患いで床についている人や何らかの持病を有する人から発する「腐ったリンゴのようなにおい」「肉屋のようなにおい」…などと称される「疾病による体臭」などに対しては、腐った飲み物や食べ物そのもの、車の排気ガスやガス漏れの際のにおいなど、かいだ人の健康や命に即座に関わるものではないにもかかわらず、激しい拒否反応を起こす人々が少なくない。何とかそれらをなくそうと、専用の消臭グッズが多く売られている現状でもある。
更に人間の「死体」そのもののにおいだが、「ちょっと甘ったるく、何とも言えない腐敗臭」と言われるが、400種類以上の揮発性有機物が複雑に混ざり合ったものだという。それゆえ、「死体」といっても全てが同じにおいではなく、腐敗のプロセスによって大きく違ってくる。それはその人の生前、体内にいたバクテリアの数、遺伝子的性質や食習慣によって生成されていたにおい、そして死体となった後、周囲に存在したバクテリアの数、更にそれらとの相互作用、気候、死体が発見されるタイミングなどによって、微妙に変わってくるためだという。とはいえ、人間を含む生物が死を迎え、そしてその体が腐ることによって発生する「腐敗臭」の主な成分は、カダペリンとプトレシンという分子で、ほとんどの動物が逃げ出すほどの悪臭だ。
イ・ブルは死んで腐った魚を使ってアートを表現
そのような生物の「腐敗」、そしてそれに伴う「腐敗臭」を「芸術」として表現した女性アーティストがいる。イ・ブル(李昢、Lee Bul、1964〜)だ。韓国・ソウルを拠点として、「腐敗」に限らず、現在も先鋭かつ精力的に芸術活動を行っているイだが、アートに関わる世界中の多くの人々の目を引いた「事件」を引き起こしていた。
1997(平成9)年、イはアメリカ・ニューヨーク近代美術館(MoMA)において、2点の作品を発表した。『壮麗な輝き(華厳、けごん)Majestic Splendor』と題されたそれらの作品だが、1点目は、スパンコール、ビーズ、金属の花などで飾られた98匹の生魚が1匹ずつ、透明なビニール袋に入れられたもの。そしてもう1点は、210×130×130cmの水槽の中に、1点目と同じようにスパンコール、人工毛のカツラ、髪を飾るかんざし、そしてユリの花で彩られた金糸の網に生魚を大量に詰めて女性の形にした、素人目には、まさに「怪物」にしか見えないものだった。しかもそれらの作品には、防腐や防臭処置は一切施されておらず、「自然のまま」に腐敗臭が周囲に充満するままの状態で展示されていたのである。
イ・ブルの動機
イは、決して人目を惹くために、こうした作品をつくったわけではなかった。その背景には、スパンコールと魚という、人工と自然の不条理な結合がつくり出す衝撃の奥に潜む、美の概念やその変遷に対する問いかけ。イが生まれ育った韓国における、1960年代以降の軍事独裁政権から民主国家への転換に伴う、社会的・政治的大変動。それゆえの社会や国家のあるべき姿、個々人にとっての理想や幸福などの概念を追求せざるを得なかった状況。それはイの両親が、反体制派の政治犯として当局に目をつけられていたことから、逃亡生活を強いられていたことも大きいだろう。更に発展期の国・地域に見られる労働格差、並びに女性の社会的犠牲。殊にイの幼少期においては、イの母親を含む、多くの「豊かではない」家庭の主婦たちが手内職でスパンコールやビーズ細工を行い、家計の足しとしていたこと…などが織り交ぜられ、そのような「奇異」な形となったのだ。
イ・ブルは腐敗臭を隠そうとしなかった
魚の腐敗が進み、悪臭が漂うようになってから、美術館側は密閉した冷却装置での展示を提案した。イはそれを拒み、「オリエンタリズム」を彷彿とさせる香水を振ることを求めた。それでも悪臭が収まることはなく、展覧会直後に作品は撤去されることになった。
万人が賛同するものではないことは言うまでもないが、美術館からの撤去も含め、イのこの一連のパフォーマンスは、「腐敗」や「悪臭」とは対極にある、「美しさ」「芳しい香り」に象徴される「潔癖主義」的であることが「当たり前」だった既成の「芸術」そのものやその価値基準の崩壊。更に、古今東西のあらゆる「芸術」において忌避され続けてきたものの、人間を含む生物から切っても切り離せない、時の経過によってもたらされる「腐敗」や「悪臭」などをも包摂する新しい「芸術」の誕生の瞬間だったのだ。
芸術家イ・ブルの原体験
イが後に、「有機的で、時には幻影のような形、また私の個人的な知覚や経験、そしておそらく記憶や夢から生まれた想像上の形態を実験していく自由を私に与えてくれました」と語る『壮麗な輝き』などの作品を生み出したことは、イの幼少期の思い出が濃厚に影響している。
幼少期のイはある時、恐らく恋人同士と思われる、オートバイに乗った美しい男女が道路を疾走して行くのを見た。その直後、彼らはベーカリーショップに激突した。「ケーキが倒れ、(彼らは)山のように積み重なったお菓子にうつ伏せに着地し、クリームやジャムが飛び散っていた…血と一緒に」。イは恋人たちの「およそこの世のものとは思えないキラキラした様相」に魅了された。それと同時に、「厳しい現実」を知った。「愛のオーラは、残酷な物質性の世界に対して脆弱な肉体を守ってはくれなかった」。彼らは死んでしまったのだ。
この強烈なビジョンが、民主化後に驚異的な経済成長を成し遂げた韓国社会に起こった、例えば飛行機の墜落、橋の崩壊、パイプラインの爆発、ソウル市内のサムプン百貨店崩落事故などの大惨事と結びつき、イの心の内奥にたぎる「表現したいことへの思い」になっていったという。
『壮麗な輝き』より前の1990(平成2)年、イは東京のギャラリーKにおける、「Tokyo-Seoul Traffic」という展覧会で、床に人型に焼いたパンと野菜を並べ、生きたニワトリたちについばませた後、そのパンを小さく切ってパンの墓をつくったインスタレーション作品『彼女はわたしの救いの源だった』を発表した。そこでイは、腐敗し、消えて行く身体と、パンに象徴されるキリスト教的犠牲と救済を扱い、宗教的救済に対する関心を見せていた。この作品に限らず、イの独特で「センセーショナル」な作品群に対し、韓国国内外において「アートではない」という批判を受けることが多々あったという。しかしイはそれに屈し、「みんな」が「アート」と認める作品をつくるのではなく、自分にしか生み出し得ない世界をひたすら追求し続け、今日に至っている。
忌避と歓迎のバランス
2012(平成24)年、東京・森美術館で開催された「イ・ブル展」に際し、イは、「容赦なく流れていく時間と冷徹に続いていく人生」に対して、「それから逃れたいという生存本能に促されて、私たちは、これまで文化の基底を形作ってきた想定−「人間の条件」に関する基本的な信仰と価値観−にすがりつこうとするのかもしれません。そうならないために、私たちが緊急に必要としているのは何よりもユーモアの感覚であり、不条理な状況に直面しても笑うことができる能力なのだと思います」と語っていた。
周りの目を気にしながら、世間一般の価値観に自分を適合させ、「臭いこと」から逃れようとするのではなく、「嫌なにおい」を含む「臭さ」も人間であることの証であると受け入れる。とはいえ、生物の持つ皮肉な両義性を認め過ぎるあまり、「臭さ」を「嫌がる」ことを排斥し、「嫌なにおい」そのものから目を逸らすことは、いいことではない。「臭いものは臭い」「嫌なものは嫌」とはっきりと宣言する勇気も、時には必要だ。
老いや衰えを誤魔化さずに受け入れることの重要性
日本においては、たいていの人は死後、火葬に付されるため、「腐敗臭」「死臭」をかぐことからは無縁でいられるかもしれない。しかし昨今の「孤独死」問題は、「引きこもり」や「ひとり暮らし」の人に限らない。地震や災害、急病や事故などで、たまたまひとりでどこかで死んでしまった場合、それを誰かに見つけてもらうまで、自分の死体は腐敗し続ける。悪臭を発し始める。生きている間は、あれほど「におい」を気にしていたというのに…死ななくても、何かの慢性疾患にかかってしまい、体が勝手に「今までとは違う」「変」なにおいを発し始めるかもしれない。それを恐れず、そして「消臭グッズ」でうわべをごまかさず、生物の宿命として受け入れることができれば、どんな時でも心乱されることなく、イが言う、「ユーモアの感覚」をもって、死ぬまで生き続けることができるのではないだろうか。
参考資料
■古市保子(編)『アジア現代美術 個展シリーズ Ⅲ イ・ブル展《世界の舞台》』2003年 国際交流基金アジアセンター
■「アジア現代美術個展シリーズ3 『イ・ブル』展 イ・ブルについて」2003年『国際交流基金』
■片岡真実・佐々木瞳(編)『イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに』2012年 森美術館
■「イ・ブル展:私からあなたへ、私たちだけに−アジアを代表する韓国女性アーティスト、初の大規模個展」2012年2月4日〜5月27日 『森美術館』
■「人間の死体ってどんなニオイ?死臭を科学的に検証する」2015年6月5日『カラパイア』
■「【男と女の相談室】風呂に入っても残る高齢者のにおい 体のココを疑え」2015年11月25日『JCASTニュース』
■「ココが知りたい 身近な質問:介護している部屋の特有のにおいに悩んでいます。原因と対策を教えてください」2017年5月24日『エステー』
■ロジャー・グリフィス「現代美術と美術館の挑戦」『国際シンポジウム 『臭気』の現代美術 -SMELL in Contemporary Art-』2017年6月17日(1-5頁) 東海大学創造科学技術研究機構
■「教えて、ドクター!【特集/においと香りと人のからだ】香りの好き嫌いは情報や環境で変わる」2018年7月11日『WACOAL BODY BOOK』
■田口かおり「近現代美術の『臭気』をめぐる一考察 –展示、収蔵、保存、修復のケーススタディ」京都大学大学院人間・環境学研究科岡田温司研究室(編)『ディアファネース:芸術と思想:京都大学大学院人間・環境学研究科岡田
■温司研究室紀要』第5号 2018年(45-63頁)京都大学大学院人間・環境学研究科
■佐藤孝明「ヒトの遺伝型体臭とその疾病異常の研究」高橋由美・津野田勲(編)『AROMA RESEARCH -Journal of Aroma Science Technology and Safety-』No. 77 2019年(3-8頁)フレグランスジャーナル社
■鈴木隆「体臭と文化」高橋由美・津野田勲(編)『AROMA RESEARCH -Journal of Aroma Science Technology and Safety-』No. 77 2019年(36-39頁)フレグランスジャーナル社
■「肉食獣も逃げ出す臭い スカンクの臭腺、嗅いでみた」『朝日新聞DIGITAL』2019年1月12日