旧暦の3月24日(新暦の4月24日)は1185(寿永4)年、源氏に追いつめられた平家一門が、長門(ながと)国赤間関(あかまがせき)(現・山口県下関市)の壇ノ浦の合戦において、海のもくずと消えた日だ。
平家一門終焉の地は壇ノ浦だけではない
壇ノ浦の合戦といえば、わずか6歳で平清盛(1118〜1181)の妻・二位尼(にいのあま)こと平時子(ときこ、1126〜1185)とともに入水した安徳天皇(1178〜1185)をはじめとする、多くの平家方の人々が続々と自ら命を断っていく。まさに物語冒頭の「諸行無常」「盛者必衰」どおりの状況だ。その過酷な「現実」は、我々の心を、平家方の衰亡に傾いてしまった時世・時運に対して、なすすべもなくただ諦め、それを受け入れるしかないという絶望感へと導いて行く。
ちなみに「平家一門終焉の地」は壇ノ浦ばかりではなく、九州最北端の海の町・福岡県遠賀(おんが)郡芦屋(あしや)にも、『平家物語』(13世紀に成立か)に詳述された源平の合戦を裏づける言い伝えや、貴重な文化財が存在する。
福岡県遠賀郡芦屋の歴史
『平家物語』巻3において、平家の人々が芦屋の津を通過した際に、1180(治承4)年、京の都から福原(現・兵庫県神戸市中央区〜兵庫県北部)に遷都した折に通り過ぎた里(現・兵庫県芦屋市)と名前が同じであったため、どこの里よりも懐かしく感じ、それゆえに自身が京都からはるか彼方の太宰府まで流れ落ちたという立場を思うと、哀しくて仕方がない…と記された北部九州の芦屋は、律令体制下においては太宰府の観世音寺(かんぜおんじ)所領の年貢を奈良・東大寺に送るための積み出し港として、そして江戸期には、福岡藩主・黒田長政(1568〜1623)によって更に開発・整備が進み、多いに栄えていた。
落ち延びた平家一門を迎え入れたのが芦屋の山鹿兵藤次秀遠だった
平清盛没後に力を失っていった安徳天皇をはじめとする平家一門は、1183(寿永2)年、太宰府(現・福岡県太宰府市)に落ちのびていた。そんな中、彼らを手厚く保護したのが、当時の芦屋一帯を治めていた山鹿兵藤次秀遠(やまがひょうどうじひでとお、生没年不詳)だった。秀遠の居城・山鹿城から程近い茶臼山(ちゃうすやま)には、一時安徳天皇の御在所が置かれていたということから、いつの頃からか、安徳天皇を祀った大君(おおきみ)神社が建てられている。
源平合戦を史実として認めるのが堂山の石塔群
『平家物語』巻11によると、壇ノ浦の合戦は、当初は平家方が優勢だった。それは「九州第一の精兵」でもあった秀遠の、「海」を熟知した「戦術」による。彼は500余艘(そう)の船を率い、平家方総勢1000余艘の先陣となって、源義経(1159〜1189)が率いる3000余艘の船と対峙した。その際秀遠は、強弓の者500人を選び、彼らを各船の艫(とも。船尾のこと)と舳(へ。船首のこと)に並ばせ、一斉に矢を放たせた。大将・義経は真っ先に進んで戦ったが、秀遠側の攻撃が凄まじく、対抗することが叶わなかった…。
最終的に平家方は、体勢を立て直した源氏方の猛攻に敗れ、自滅してしまうのだが、海戦の激しさのみならず、それが完全な「フィクション」、或いは地域に伝わる「言い伝え」などの曖昧なものではなく、「史実」であったことを物語る文化財に、「堂山(どうやま)の石塔群」がある。
堂山の石塔群とは
遠賀川の河口(かこう)から、響灘(ひびきなだ)へと連なる道筋に、鬱蒼と木が茂る一角がある。かつては2つの小島だったのだが、第2次世界大戦後に埋め立てられ、現在は陸続きになっている。沖の方にあるのが、堂山と読みが同じ「洞山」で、手前側が「堂山」になる。
高さ約10メートル、幅約2メートル、奥行約30メートルの神秘的な洞穴を備える「洞山」の方にはかつて、「平家の公達を祀る墓があることから、洞山に登ると、馬に乗る荒武者が現れて、岸壁から突き落とされる」という言い伝えがあり、地域の人々から恐れられていたという。
一方の堂山の入り口には、無人の蛭子(えびす)神社の鳥居がある。それをくぐって石段を登り切ったところに、小さな本殿がある。そしてその右脇に回ると、300基以上にも及ぶ、高さ50〜60センチの、全体的に小ぶりな古い五輪塔・板碑・石仏が祀られている。これが「堂山の石塔群」だ。
堂山の石塔群が見つかった経緯
1897(明治30)年ごろ、近在の柏原(かしはら)浦(現・柏原漁港)に住む、あるひとりのおばあさんが、延命地蔵尊を祀る地蔵堂建立を発願した。その整備工事中に、地中から大量の石塔が発掘されたのだ。
土中に供養のために石碑を埋納するという風習は、九州地域ではとても珍しく、また、用いられている大理石も、近在で採れる石材ではない。恐らく、肥後八代(現・熊本県八代市)近辺で作られたものが船でここまで運ばれたのではないか、と考えられている。また、石碑そのものの様式が、主に平安末期〜鎌倉初期に見られるものであることから、安徳天皇を含む平家一門の供養のために、後々生きながらえた落人たちによってなされたか、または山鹿秀遠が率いた水軍の水主(かこ。船乗りのこと)や楫取(かじとり。船頭のこと)たちの鎮魂のために、芦屋の人々がなしたものではないかと考えられている。
殊に『平家物語』巻11には、海戦の後の様子を、「海上には、平家の赤旗や赤印が投げ出され、放り捨てられたので、竜田川のもみじ葉を嵐が吹き散らしたようである。渚に打ち寄せる白波も、薄紅になってしまった。主人もいない空の船が、潮に引かれ、風のまにまに、どこへともなく揺られて行くありさまは、まことに悲しいことであった」と記している。
最後に…
大君神社にしても、落武者の幽霊が出ると言われた洞山、そして無数の石碑が祀られた堂山にしても、人が多勢押しかけるような「観光スポット」になることもなく、地域の人々に手入れされながら、その身を静かにさらしている。美しく輝いていたものすら、醜く朽ち果てさせてしまう「作用」を有する時の流れは、冷酷なものだと言われているが、たとえ血まみれの戦場だった場所であっても、時は美しく、何事もなかったような穏やかな場所へと変えてしまうのだ。それは確かに「冷酷」なことかもしれないが、そうしたことが我々に教えてくれることがあるとしたら、平家一門の人々が味わった苦しみ・悲しみ・怒り・後悔・恨みつらみなど、詳細に渡る「こだわり」「執着」の一切合切を呑み込み、風化させてしまうことと同様に、我々の心の中に大きく立ち塞がり、日々苛み続ける、思い出したくない過去や日常生活における辛い経験なども、時の流れの、ある意味一切の感情を結果的に超越させてしまう「雄大」さを思うと、「大したことはない」「いつかは消えてなくなる」ということだろうか。
静かな芦屋の海に見守られながら眠る、300の石碑たちを含む、源平の合戦で絶命した全ての人々の魂の安寧を、心の底から祈らずにはいられない。
参考資料
■荒谷美知郎「山鹿」西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部(編)1982年(1011頁)西日本新聞社
■松崎英一「山鹿郷」西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部(編)1982年(1011頁)西日本新聞社
■有川宜博「山鹿城」西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部(編)1982年(1011頁)西日本新聞社
■松崎英一「山鹿荘」西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部(編)1982年(1012頁)西日本新聞社
■正木喜三郎「山鹿秀遠」西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部(編)1982年(1012頁)西日本新聞社
■秦清『筑前 芦屋案内記 附 石造物と歴史を訪ねて 筑前芦屋旧跡巡り』1985年 山鹿はた資料室
■芦屋町教育委員会(編)『増補改訂 芦屋町誌』1991年 芦屋町役場
■石井邦一「平氏一門の流亡の足跡 『平家物語』に見る鶉の里と山鹿」深町純亮(監修)2006年(68−69頁)郷土出版社
■山田克樹「海に開かれた物流の拠点 芦屋津の隆盛」深町純亮(監修)2006年(86−87頁)郷土出版社
■杉本圭三郎『新版 平家物語 (三) 全訳注』2017年 講談社
■杉本圭三郎『新版 平家物語 (三) 全訳注』2017年 講談社
■山田克樹「遠賀川物語 〜水運と文化の伝播〜」2019年 芦屋町教育委員会