戦争、紛争、テロなど争いの多くはその背後に宗教を抱えている。宗教は平和を説くはずなのになぜ戦争をするのかと、誰しも一度は不思議に思うことがあるだろう。宗教というものは善を説き、倫理を語り、道徳を教える。その目指すところは絶対平和・平等、心の安寧である。しかしそれはあくまで宗教の一面に過ぎない。マルクスは「宗教は阿片」だと言ったが、宗教は阿片どころではない劇薬を秘めている。
オウム真理教で考える宗教が孕んでいる危険性
オウム真理教事件は宗教の危険性をよく表している。一般常識、社会通念に照らすなら、彼らは宗教家の皮を被った殺人者、テロリストである。宗教、仏教を名乗るなど言語道断ということになる。しかし、それほど単純なものではない。オウムは殺人をこの世では救われない魂の救済手段として正当化していた。つまり殺すことで魂を「解脱」させてあげようという理屈であった。彼らはその行為を「ポア」と呼んだが、本来の「ポア」とは、魂を身体から抜くとされるチベット密教の身体技法である。オウムはこの「魂を身体から抜く」行為をこちらが「やってあげていた」慈悲の行為であると解釈した。一般常識からは理解し難い論理であるが、オウムがゼロから無理やりこじつけた理屈でない。仏教、特に密教にはそうした闇が存在する。
密教の闇
チベット密教の高僧ドルジェタクは「度脱(呪殺)こそ、解脱の近道にして、慈悲の道であり、慈悲の武器」と断じており、多くの人間を呪殺したと伝えられている。なぜ呪い殺すことが慈悲なのか。つまり現世では救われない悪しき魂を仏国土(極楽浄土など)に往生させる慈悲行であるとする。これはオウムの理屈とほぼ重なっている。
もうひとつは「空」の思想である。仏教では生成も消滅もない、すべての存在は幻であると考える。幻に殺すも殺されるもなく、すべてが「空」であれば殺人という言葉すら成り立たない。密教学者・正木晃は「空」は大乗仏教の核であると同時にこれほど危険をはらんだ真理もないと述べている。
もちろんほとんどの宗教者はそのような「闇」に落ちることはない。しかし元々宗教とは現実を超えた「超現実」の世界を提示するものであった。我々の生きる現実世界と同じ次元に留まるのであれば宗教など必要はない。現実を超え、その先へ、つまり「死」の向こう側へと導いてくれるのが宗教の役割である。そう考えると殺人の正当化は決して難しくはないのも事実だ。現実とは「生」のことであり、超えるとは否定することでもある。「超現実」は「生」の否定にもつながるのである。
浄土のパッション
このような過激な側面は仏教の中でも呪術的、神秘主義的な密教により顕著ではあるが、宗教そのものが現実を超えた「超現実」の価値観である以上、どの宗教・宗派にも内在している。「超現実」は「死」に対応するための手段であり、同時にこの世界への不平不満、生きる苦しみに悶える人達にとっても救いの道でもあった。
呪術や神秘主義を否定するなど密教と対極にあり、現実逃避のイメージがある浄土系においても「超現実」の論理が爆発したことがある。一向一揆がそれである。彼らは極楽浄土に往生できるのだから死を恐れない。「南無阿弥陀仏」を唱えながら、死を恐れず向かってくる一向衆の姿は、迎撃する武士たちにとっては狂気の沙汰であり不気味で恐ろしい存在だっただろう。
現実逃避というと自殺や引きこもりなど弱いイメージを持ちがちだが、彼らは現実を逃避しているからこそ強かったのである。彼らの現実逃避とは文字通り現実を超えることであり、「南無阿弥陀仏」の六字の下、彼らのパッションは激しく爆発したのだった。
禅の爆発
宗教学者・町田宗鳳によると宗教の根底は「狂い」であり「爆発」である。芸術や文学の世界にもそういう面があり、歴史に名を残すような者の作品にはある種の狂気の爆発を見出すことができる。密教も浄土系仏教も「超現実」の世界に足を踏み入れることで「爆発」し、一般常識とはかけ離れた行動に出る可能性を有している。実際その爆発のベクトルが、密教を殺人という闇に落とし、浄土系仏教を自殺に近い戦いへと駆り立てた。
(社会的・政治的には)比較的静かな印象がある禅もまた激しい。有名な公案(禅問答)に「南泉斬猫」がある。中国・唐代の高僧・南泉の弟子たちが子猫を奪い合っていた。そこに現れた南泉は猫を取り上げ、弟子たちに一言を求めた。そしてその一言を言うことができれば猫は助ける。言えなければ猫を斬ると叱りとばした。結局誰も答えられず、南泉は猫を斬ってしまった。その晩、一番弟子の趙州が帰宅し、南泉からこの話を聞いた。すると趙州は履いていたぞうりを脱ぎ、黙って頭の上にのせて部屋を出て行った。これを見た南泉は「おまえがあの場にいれば、猫を救うことができたものを」と嘆いた。
一体何事かと思うだろう。禅では行くも引くもならないダブルバインド(二重拘束)の状態に追い込み、常識を爆発させることで悟りを得ようと目論む。趙州は常識を超え現実を超える解答を出したといってよい。いずれしろそこには日常生活を営む普通の人間には理解できない異常といってよい価値観が展開されている。
持つべき認識
殺伐とした話が続いたが、宗教が現実世界を超える論理を提示している以上、現実と齟齬をきたすのは当然であるし、そういう形でしか宗教は成り立たない。現実世界に立脚したものは思想、倫理、道徳であっても宗教とは言わない。宗教の対象は死である。死は現実には存在しない。現実を超えるもの、超越的存在である。宗教もまた現実を超えなければ意味はない。現実を超克する論理があるから死を乗り越えられるのだ。
宗教やスピリチュアリティは、人間が有限な存在である限り要請せざるをえないものである。しかしこれまで述べたように危険な一面もある。葬儀や法事くらいしか触れる機会がない、特別な信仰を持たない者にとって、宗教にはオウム事件のような凶悪犯罪を生み出すこともある劇薬が含まれていることを認識しておくべきだ。同時にそれほど強烈な劇薬だからこそ、死の恐怖や生の迷いから我々を救ってくれる良薬にもなるのである。
参考資料
■正木晃「性と呪殺の密教」ちくま学芸文庫(2016)