生前善人だった者は天国・極楽へ、悪人だった者は地獄へ行くという二元的な来世観は世界の宗教・習俗に共通する。そうした中でローマ・カトリックには「煉獄」という天国と地獄の間に存在するとする独特の世界が説かれている。煉獄とは何か。
煉獄の炎とは
煉獄(プルガトリウム)は天国と地獄の間に位置する、生前の罪を償うための中間的な世界である。煉獄に入った者は炎に焼かれ苦しむとされているが、地獄と違い永遠の苦しみではなく、罪を浄化するための炎だという。
ダンテの「神曲」は地獄篇・煉獄篇・天界篇の3部から構成されており、多くの著名人が煉獄で浄化されための苦しみに喘いでいる様子が描かれている。しかし聖書には煉獄についてはっきりとした記述はない。カトリック教会が聖書のいくつかの箇所に煉獄の存在を見いだしたものであった(「コリントの信徒への手紙」など)。
その思想的根底にあるのは罪と罰の関係であり、イエス・キリストの「悔い改めよ」の一言にある。罪を認め心から悔い改めた者に課せられた罰=贖罪を完遂する場所が煉獄なのである。悔い改めるなら(この場合はイエス・キリストを信じ、キリストに罪を告白すること)罪は既に赦されている。あとは炎の試練をくぐり抜けて天国へ行けというわけだ。煉獄の炎とは悔い改めた罪人に課せられた天国へのハードルである。
天国への免罪符として商業利用された
カトリックによると、煉獄の死者たちは生者が祈り、死者たちの救済を執り成すことで浄化を早めるとしている。それ故に遺族らは煉獄の炎に苦しんでいる者のために祈った。宗教史家ジャック・ル・ゴッフが「霊的助力」と呼ぶその祈りは、祈りのプロとも言える神父によっても行われた。
しかしやがて中世のカトリック教会はこの「祈り」を「贖宥状」(広さ免罪符)として商業利用することになる。教会は贖宥状を買うことで、煉獄にいる魂の罪の償いが行えるとして販売した。抜け目ないことにそれほど高価なものではなく、民衆はこぞってこれを買った(高所得者には高値で売りつけた)。これに憤慨したのがマルティン・ルター(1483~1546)であり教会に有名な「95カ条の提題」を後の宗教改革につながっていく。その背景には煉獄で苦しむ霊とその家族の存在があったのだ。
煉獄の祈り
ルターでなくとも煉獄は確かにカトリックによるこじつけだと言いたくなるものだ。ルターがきっかけで誕生したプロテスタントや、カトリックと並ぶギリシャ正教では当然ながら煉獄の存在は認めていない。しかし、煉獄の存在は残された人にとって心の救済になった面もあるのではないか。
ひと頃、次のような怪談というか「怖い話」が流行った。娘に先立たれた親が娘と話をしたいと霊能者を訪れ、霊能者は「残念ながらあなたの娘は地獄に堕ちました」というオチで終わる。実に後味の悪い薄気味悪い話ではないか。娘が地獄に堕ちたと聞かされた親の気持ちはいかがなものだろうか。現世で祈ることで娘が赦されるよう執り成すことができるなら必死で祈るだろう。
祈るということは願いでもある。「安らかに眠って下さい」「どうか成仏してください」こうした願いはすでに天国・極楽で安寧の日々を過ごしているならば必要ないことである。しかし、残された人たちは人間がそう容易く天国には行けないことを知っている。少なくとも亡くなったあの人が、手放しに「成仏」していると楽観的に考えることはできないだろう。そこまでの聖人君子などそういるはずはないし、不完全だからこそ人間味があるというものだ。だからこそ祈る。天国に行けますようにと。
日本では賽の河原が煉獄に近い存在
日本では賽の河原が煉獄に近いといえる。親より先に死んだ子供たちは、親を悲しませる逆縁の不幸という罪を償うために石を積む罰を受けている。やっと積み終わったと思えば鬼が崩してしまう。恐山にある「賽の河原」には積んだ石をたくさん見ることができる。親たちは少しでも子供が楽になれるならと代わりに石を積むのである。親たちは子供を責める気持ちなどありはしない。一刻も早く責め苦から解放してやりたいと思い石を積むのだ。賽の河原ではやがて地蔵菩薩が子供たちを救ってくれるといい煉獄の浄化に似ている。
真の地獄とは
煉獄と地獄の違いは未来の救いがあるかの違いである。我々が地獄だと思っている世界はほとんどが煉獄である。では地獄とはなんなのか。キリスト教における地獄とは、神に反旗を翻し敗れて天界を追放された堕天使ルシファーが創造した世界である。つまり元々神の側にいた存在が「堕落」した者たちがいる場所だ。
ジョン=ミルトン(1608~1674)はその著作「失楽園」でルシファーに「一敗地にまみれたから何だというのだ」と言わせている。悔い改めるどころではない、明確な意思を持って地獄にいるのだ。堕天使たちの反撃作戦会議ではマンモンなる堕天使が、天国で奴隷のように暮らすより、地獄で苦難にみちた自由を選ぶとまで言っている。ミルトンの描く悪魔(堕天使)は魅力的ではあり、権力への闘争という側面があるが、ここに煉獄を置くと「地獄」なるものの解釈が変わってくる。筆者は地獄に堕ちる者とは、自分が悪である自覚はない、あるいは「『悪』である自覚は持ちつつ、それを『悪いこと』とは思っていない」者のことではないかと思う。現代ならサイコパスといったところだろうか。
国内で起こった悲惨な大量殺人事件
2017年に神奈川県座間市で発生した9人を殺害した連続殺人事件の取材記事を読んだが、被告の男は謝罪意識もなく悪びれもせず答えていた(毎日新聞 2019年10月29日)。
また、2016年 神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設で入所者19人を刺殺し26人に重軽傷を負わせた事件の犯人も歪んだ思想を持ち、むしろ犠牲者を救ってやったと言わんばかりの言動を繰り返している。
悪質ないじめを行う者もこれに通じるのではないか。彼らは遊びのつもりで弱者をいたぶり何の罪悪感もない。神学者アンセルムス(1033~1109)(は、知りつつ犯した罪と無知から犯した罪の差は非常に大きいと説いている。自分が地獄に堕ちていることに気づかない。それこそが本当の地獄なのである。煉獄は地獄を浮き彫りにさせる存在でもあるのだ。
煉獄の意味
カトリックが煉獄を残している理由はそこに意味があるからだろう。我々もまた多くの罪を犯している。何の罪もないなどと考える者はほとんどいない。我々は煉獄に片足を入れているのだ。死んだ家族や友人に対して成仏して下さい、安らかに眠ってくださいと祈ることを、さらに言語化すれば「悪いこともしたと思いますができるなら天国・極楽へ行ってください」という煉獄の祈りになるだろう。煉獄は我々の心の有り様を切り取っているのである。
参考資料
ジャック・ル・ゴッフ「煉獄の誕生」法政大学出版局(1988)
松田隆美「煉獄と地獄」ぷねうま舎(2017)
山田晶「アウグスティヌス講話」講談社(1995)