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国内では数少ない経済産業省から伝統工芸品として指定されている仏壇について

「諸国の家毎に仏舎をつくりて、すなわち仏像および経を置き、礼拝供養せよ」ーー日本書紀685年3月27日に記された天武天皇の勅命である。この時期から各地で持仏堂の建立が始まるが、持仏堂の建設は二つに派生していく。一つは、国分寺や平等院など仏像を中心にした仏殿の建築。そしてもう一つは、地方豪族の持仏堂から庶民の持仏堂へと広がっていくパターンである。ここで自身の屋敷内に先祖を祀り、礼拝の対象物としていた祠を屋内に迎え入れたことが仏壇のルーツとされている。


江戸時代に仏壇は一気に普及

さらに、仏壇の普及は江戸時代に入ると一気に加速する。徳川家康は、キリスト教の禁制を次第に強化し、島原の乱後、全国の人民を一人残らずいずれかの寺院の所属とし、仏壇のない家は邪宗門として告発されるに至り、仏壇の設置が強制的に行われた。こうして仏壇は全国に普及していったのである。


各地の仏壇の歴史と沿革

現在、15カ所の産地が経済産業大臣によって伝統的工芸品・仏壇として指定されている。そのほか、県知事によって伝統的工芸品産地に指定されている産地や、それに入らない産地も多いが、いずれも100年以上の歴史を持ち、古くから伝統工芸技法を守り続けている地域に他ならない。土地に根ざした伝統工芸は様々な変化を遂げ、その形を遷移させながら今なお日本固有の財産として息づいている。今回は、その中のいくつかを紹介したい。


精巧で耐久力に優れている彦根仏壇

彦根は琵琶湖東岸にある井伊氏35万石の旧城下町である。彦根市新町の芹橋から近江鉄道彦根口駅まで多くの仏壇屋が軒を連ねている。17世紀(寛永)、京都から仏壇作りの技術が伝えられ、彦根もこの伝統工芸で栄えてきたが、運河沿いのこの場所は、護岸工事が弱く、長雨や豪雨により、歴史的な仏壇に関する古文書や経巻などが流失してしまい、見るべきものを残していない。その中で唯一残った足跡は、古くに作られた仏壇である。その「洗濯」と呼ばれる清掃の際に、分解した後板や台輪裏などから制作年代や作者の銘を見つけることができる。彦根仏壇は大型のものが多く、個品生産であるため、洗練されていて美術的価値も高い。これは強みである反面、注文に応じてどこの産地のものも模して制作可能という技術でもある。そのため、彦根固有の様式というものは確立しなかった。ただし、細工が精巧であること、耐久力に優れていることは、紛れもなく彦根仏壇の強みと言えるだろう。


独自の形で発展してきた川辺仏壇

川辺町は鹿児島県の南西部にあり、薩摩半島のほぼ中央部、山に囲まれた盆地である。川辺仏壇の多くは、小型で家庭向きのものがほとんどを占め、さらに「タンス型」や「ガマ型」と呼ばれる独自の形もある。昨今の核家族化に伴う小型化と思われそうだがそうではない。慶長2年(1597)時の藩主、島津義弘は浄土真宗(一向宗)禁制の断を下した。しかし、取り締まりが強化されるほど民衆の進行も強固なものになっていった。厳しい弾圧と拷問にもめげず、信者たちは仏像を背負い、経典を隠し持ち、山間に集まった。いわゆる隠れ念仏として隠し持つには小型の仏壇は便利だったのである。さらに、目くらましに、見かけはタンス、扉を開けると仏壇が隠されているという仕掛けのものが多くなっていった。鹿児島では洞窟のことをガマといい、そこから「タンス型」「ガマ型」仏壇というのが作られるようになっていった。その後、明治9年(1876)、明治政府が信仰自由の令達を出したことで、戦国時代から300余年にわたり禁制を保ってきた川辺仏壇はようやく陽の目を見ることになった。


紆余曲折を経て、今でも残る飯山仏壇

長野市より30キロ、北信地域の北端に位置する酷寒の地、飯山の名産が飯山仏壇である。飯山仏壇は、漆器産業の一つとして仏壇産業が栄えたとみられている。この地に伝わる地域誌、下水内郡誌(しもみのちぐんし)にも、意気軒昂な筆遣いを見せている、と評価されている。しかし、飯山仏壇の歴史は、愛宕町を舞台にいくつかの口伝を残して途絶えている。その口伝の一つに、武田信玄の軍に従って飯山に来たあるものが、戦火から逃げるために寺院裏に隠れ住み、やがて愛宕町に移り、彫刻、描画を試みたというものがある。その子孫が京都から仏壇の雛形を取り寄せ、仏壇を作り始めたという。しかし、明治の廃仏毀釈によりこの地区の仏教も下火になった。そこで仏壇製造業者は漆器製造に力を入れ、漆器徒弟学校の経営など熱意を見せたものの経費多端で維持多難、廃校を余儀なくされた。その後、飯山地方の根強い仏教信仰に支えられ、仏壇製造は盛り返し、徐々に発展の道を歩み始めた。飯山仏壇の職人の多くは世襲で少年時から専門の仕事で腕を磨いているため、製品は塗りがよく優美、金箔も上等のものを使いながら廉価であると言われている。


歴史と品格を兼ね備えた京仏壇と京仏具

王城の地と称され、実におよそ千年、日本の首都として君臨した京都はなんと言っても信仰の中心地であり、仏壇・仏具に関しても他産地に追随を許さぬ技法を現在まで守り抜いている。たとえば、金箔をそのまま使うことでキンキラとした荘厳さは演出されるが、京仏壇では、下地に漆を用い、荘厳さの中に品格と威厳を内包するための工夫がなされている。京都の伝統工芸は、歴史の重みの中で、都の性格を反映した工匠的なものが多く、それは、古来より、貴人富豪の嗜好に合わせ、細部にまで心配りのされた宮廷工芸として発展してきた背景が関連していると考えられる。また、平安後期、京都は、藤原氏一族の宇治平等院鳳凰堂造営をはじめとする仏寺建立に伴い、仏具工芸のメッカとなっていった。


仏殿の建築から見る仏壇

摂関政治の最盛期、平安貴族は、現世の欲望を祈祷によって満足させようと寺を建て、その功徳によって一門の反映を願ったと言われている。かの有名な藤原道長も、法成寺を建立し、扉や壁には極楽浄土の光景を描かせ、極楽に思いを馳せたという(栄華物語)。道長の子、頼通もまた、宇治の別荘を改築して寺とし、平等院と名付け、院内に阿弥陀堂を建て、阿弥陀仏像を安置した。これが世に言う鳳凰堂である。これらの持仏堂は、心の中に極楽浄土を念ずるだけでなく、荘厳な造形美術によってこの世に極楽浄土を具現化しようとしたものだと考えられる。


仏壇から見る我々の極楽浄土

こうして見ると、普段目にする仏壇に様々な宗教的背景があることがわかる。北から南まで様々な文化が発展し、土地独自のものが発達したにもかかわらず、なぜ仏壇だけがどの土地にもあるのか疑問に感じていた。しかし、それが弾圧や強制配置の結果であること、また、一見同じように見えてその構造からも統制から逃れるための工夫がされていることも見えてきた。現在の仏壇は、宗教教理にもとずく礼拝の対象というよりは、先祖や近親者の冥福を祈り、御霊と共に生活しているという安らぎを得るものである。しかし今一度、仏壇に手を合わせて考えたい。当時、混迷を極める時代に安らぎと極楽浄土描いたものが仏具や仏壇であるなら、今の我々が思う極楽浄土とはどのような形のものだろうか。


参考資料

■田中寿雄編「日本の伝統仏壇集」(1977)


ライター 赤坂
壁掛仏壇

壁掛仏壇

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