令和元年8月6日もまた、広島市での平和記念式典は、つつがなく終わった。式典参加者のみならず、日本全国の多くの人々が、原爆投下時刻の午前8時15分に、亡くなった方々を追悼し、世界の恒久平和を誓った。
しかし、1ヶ月も経ってしまうと、「当事者」以外の世の大半の人々は、日々の生活の忙しさや、連日発生する衝撃的な事件事故に心を奪われ、「8月6日の広島への原爆投下」を忘れたまま、1年後の8月6日を迎えるのが現実だ。
だが「あの日」をずっと忘れずにいる「当事者」とは、人間だけではない。
広島では160本程度の被災樹木が現存している
広島には、原爆の熱に焼かれたり、爆風に吹き飛ばされたりしても、そして放射線による細胞内部への侵食を受けながらも、木そのものが生き抜いているもの、或いは焼け焦げてしまっても、そこから新芽や枝、株を伸ばすことで復活し、戦後74年を経た今も生き続けている木々がある。広島市は、爆心地から半径2km圏内の木々を「被爆樹木」と認定し、その木々の調査・保存を長く続けてきた。そうした被爆樹木は現在、およそ160本にも及ぶという。
160本の木々にはそれぞれ、原爆が落とされる前、そして落とされた後も、その木を知る地域の人々にとって、様々な思い出やエピソードが存在する。そのうちの1本、爆心地から1120mの距離だった、広島市中区寺町にある浄土真宗本願寺派の寺・報専坊(ほうせんぼう)にあるイチョウの木を紹介したい。
報専坊を原爆から守ったイチョウの木
この木の高さは22m、幹回りは2.5mと、実に堂々とした姿を見せている。しかし木の幹は爆心地方向にわずかに傾き、樹皮には今なお消えない熱線の跡が残っている。原爆の影響で当たり一面焼け野原となり、寺そのものも倒壊したにもかかわらず、この木が植わっていたおかげで、寺は火災から免れた。イチョウの木には保水能力があるというが、ここではまさにイチョウが身を呈して、寺を守ったのだ。
原爆被爆後のイチョウの木と報専坊
広島、そして長崎の被爆樹木を精査し、記録をまとめた文筆家の杉原梨江子の『被爆樹巡礼 原爆から蘇ったヒロシマの木と証言者の記録』(2015年)によると、原爆投下後、遠くからでも目立つ、このイチョウの木を目印にして、「私の家族を弔ってもらえないでしょうか」と訪ねてくる人が日に日に多くなっていった。
当時住職を務めていた冨樫映雲さんはできる限りそこに出向き、葬儀を執り行った。そのあまりの忙しさに加え、原爆症の症状が出始めていた映雲さんは、原爆投下から1ヶ月後の9月7日に、「しんどくて、たまらん」とイチョウの木にもたれかかったまま、亡くなった。
もともとこのイチョウの木は、跡取りの長男・仰雲さんが生まれたことを記念して、植えられていたものだった。戦争中、仰雲さんは満州に出征しており、原爆に遭うことはなかったが、家族や親戚5人が犠牲になったという。驚くべきことに仰雲さんは、映雲さんが亡くなったちょうど1年後の9月7日に無事、故郷に戻ってきた。
時は経ち、平成5年にイチョウの木に危機が訪れた
その後イチョウの木は立ち枯れることもなく、傷跡を残しつつも、いつの間にか新しい芽が出て、広島、そして日本の復興と共に歩んでいた。
しかし平成5(1993)年、台風19号が広島を襲った。その結果、寺内の墓石が風で飛ばされたり、木が倒れたりするなど、またも寺は「危機」に見舞われた。そこで、原爆五十回忌まで2年と迫っていたことから、本堂を再建することになった。しかも当時はバブル景気。土地を最大限利用し、多くの人が聴聞できるような、大きな本堂を建てよう。そのためにはイチョウは伐採するしかないという話が持ち上がった。
常々、「この木は私の誕生木だ」と語りつつ、大切にしていたイチョウのみならず、樹木を愛した仰雲さんは、かつての緑の風景を蘇らせようと、境内に小さな苗木をいくつもいくつも植えていた。時には木の剪定すら嫌がり、周囲がジャングルのようになっていた時期さえあった。そんな仰雲さんは、本堂の建て替えに伴うイチョウ伐採を断固反対し続けた。
被災樹木に認定され、切らずに済んだイチョウの木
いろいろな人と話をする中で、「ちっちゃいころ、この木の下でよう遊んだよのう」「私は髪の毛が抜けてしもうて、もうだめかと思うとったけど、広島じゃ75年間草木も生えんといわれていたのに、このイチョウもなんとか生きとる。私も生きられるんじゃないかと思うてきました」「残せるんなら残したいよのう」と語る人たちが多くいたことから、寺ではイチョウを残すことにした。そこで、「被災樹木」に認定されれば、木を切らなくて済むかもしれないという判断から、仰雲さんの長女・章子さんが広島市役所に連絡したところ、無事、認定を受けることができた。更に樹木医からのアドバイスを参考にしつつ、翌年、新たに建て直された建物に、イチョウを包み込むようなU字型の階段を設けたり、木は蒸れると弱ってしまうことから、幹の後ろ側の階段下にスリットを入れ、風通しを良くするための通気口を作ったりもした。報専坊のイチョウは、こうして、今日も勢いよく天に向かって枝を伸ばし、地下深くにどっしりと根を張りながら、地域の人々を見守っている。
樹木とは
そもそも、樹木は「カミ(神)」と緊密な関わりがあるものだと考えられていた。それは古今東西の歴史の中で人々が、大雨・暴風・雷鳴・地震などの天変地異から逃れるために、山川草木を超絶的な心霊の権化、またはそうした心霊が宿るものであるとして、崇拝の対象としてきたことによる。
例えば日本においては、平成29(2017)年にユネスコの世界文化遺産に登録された福岡県の「宗像(むなかた)・沖ノ島(おきのしま)と関連遺産群」のひとつである宗像大社内の「高宮(たかみや)祭宮」は、神籬(ひもろぎ・樹木)を依代(よりしろ)として、三女神が降臨したと伝えられ、我々が知る一般的な神社の社殿が建立される以前に行われていた、古代の庭上(ていじょう)祭祀を継承する「場所」とされている。
また『日本書紀』(720年)では、661(斉明7)年、斉明天皇が朝倉宮(現・福岡県朝倉市)に遷都する際、神が祀られていた朝倉社の神木を切って宮殿を造営したことから、神の怒りを招いた。その結果、新造の宮殿は壊れ、鬼火が発生したり、そばに仕えていた人々が多数病死したりしたと記録されている。そして、平安時代中期に成立した、様々な規定・規則をまとめた『延喜式』では、神社の四方での樹木伐採と死体の埋葬を禁じてもいた。
原爆被爆者がどんどん亡くなっていくなかで…
こうしたことから勘案すると、被爆樹木もまた、古代における「カミ」とは必ずしも重なるものではないが、現代の我々にとっては、原爆で亡くなった多くの人々を迎えるための「依り代」であり、我々が二度と広島・長崎と同じ惨禍を繰り返すことがないよう、一心に祈るための「ご神木」という役割をも果たしているのではないか。先日の平和記念式典の際、この1年で死亡または、死亡が確認された人々、合計5068人の名簿が、慰霊碑に納められたという。このように年々、「原爆の生き証人」たちがこの世から去って行く。我々日本人の心の中に、原爆投下が忘れ去られてしまうことなく、いつまでも語り伝えられていくために、被爆樹木がいつまでも命を繋いでいくことを、心より求めてやまない。
参考資料
■藤原衛彦『図説日本民俗学全集〈4〉』1960年 あかね書房
■井之口章次『日本の俗信』1975年 弘文堂
■佐藤弘夫『死者のゆくえ』2008年 岩田書院
■木村早苗『木村早苗写真集 広島の声なき語りべたち 被爆樹木写真』2008年 文芸社
■杉原梨江子『被爆樹巡礼 原爆から蘇ったヒロシマの木と証言者の記録』2015年 実業之日本社
■「NHKニュース おはよう日本 けさのクローズアップ:次世代につながる被爆樹木」『NHK』2017年1月22日
■「原爆の生き証人『被爆樹木』の保存支援へ 国が初の予算」『朝日新聞DIGITAL』2018年8月6日
■「被爆樹よみがえる生命力 空洞になった幹から芽吹く緑 広島・長崎で調査 杉原梨江子」『日本経済新聞』2017年8月3日 朝刊・文化面
■「被爆樹木リスト」『広島市』2019年4月1日
■「FNNピックアップ:原爆の悲惨さを被爆樹木が語る…絵本に込めた平和へのメッセージ【広島発】」『FNN.jp プライムオンライン』2019年8月4
■「令和元年(2019年)平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和記念式典)被爆樹木保存 課題山積み 広島の民間管理者 聞き取り調査」『広島市』2019年
■「被爆樹木保存 課題山積み 広島の民間管理者 聞き取り調査」『中国新聞 ヒロシマ平和メディアセンター』2019年1月8日
■「原爆を生きのびたヒロシマの木〜『被爆樹木』を知っていますか?〜」於・東京都港区立三田図書館 視聴覚ホール 2019年7月19〜8月31日
■「広島被爆74年、核廃絶の願い次代へ『原爆の日』」『日本経済新聞』2019年8月6日