東京競馬場にほど近い、府中市矢崎の住宅地の片隅に、「三千人塚」と呼ばれる塚がある。この「三千人塚」は、康元3(1333)年の分倍河原(ぶばいがわら)合戦における3000人の戦死者を埋葬したものだと、長く伝えられてきた。しかし昭和30(1955)年の発掘調査で、塚の下から12世紀後半の製品と思しき、常滑(とこなめ)焼でできた4つの蔵骨器が出土した。しかもそれらは、一定の間隔で配置されていたため、大量の戦死者を合祀したものというよりは、ある意味「丁寧に」埋葬されていた状態だった。
三千人塚にたてられている板碑には…
また、塚に立てられている、高さ1.8m、幅54.5cm、厚さ9cmほどの緑泥片岩製の板碑には、表面が磨耗して、ほとんど判別がつかないものの、阿弥陀三尊を表す種子(しゅじ)の他、「亡三年」「父聖/霊成佛得道」「康元元年」(1256年)「子」「敬白」などが彫られていた。このことから、父の没後3年に当たり、その子息が追善目的で造立したものだったことが判明した。
そもそも板碑とは、今日我々が知る「○○家之墓」などと彫られた「墓標」とは厳密に異なり、中世期の日本に多く見られた「供養塔」である。そして関東では、埼玉県秩父産の緑泥片岩を用いた大きなものが特徴となっている。しかも年代的にこの板碑は、東京・多摩地区最古の板碑であり、東京都全体でいうと、4番目に古いものになる。
なんと「三千人塚」は3000人の戦死者のためのものではなかった
これらのことから、塚と板碑との直接的な関連は不明だが、この塚は鎌倉時代後期から室町時代初期ぐらいまでの、土地の有力者を埋葬した墓所だということが明らかになった。また、平成17(2005)年の調査では、塚周辺から、主に江戸期に多くつくられた、石に経文を写した「礫石(れきせき)経」が大量に出土した。そして江戸時代は、郷土の名士によって、全国各地で地誌が編まれるようになっていたものの、主に明治の文明開化以降に始まった考古学的調査がなされていなかったことから、地域に散見する多くの「塚」「遺跡」などにまつわる言い伝えが、正しく精査されることがなかった。それゆえ、この三千人塚に関する、幕末期の斎藤月岑(げっしん)による『江戸名所図会』(1834年)内の分倍河原合戦云々の話は、当時板碑を調べた人物が、刻まれていた文字の「三年」を、「三千」と見誤ったことから始まったものではないかと、考えられている。
ではどうやって三千人塚は生み出された?
今日のように、火葬にして骨を骨壷に納め、それを墓に埋め、「目印」となる墓石を立てて、定期的に遺族がお参りに行くという、死者の「取り扱い」方は、江戸期に、キリスト教信仰を禁じるための寺請(てらうけ)制度ができてから始まったものである。
それに伴い、いつしか人々の間では、死者は必ず自分の家代々の寺によって手厚い供養がなされ、「墓」という「場所」に収まり、子々孫々に、墓参りや年忌供養などの宗教儀礼を通して、いつまでも「覚えてもらって」いなければならないと考えられるようになっていったという。
その結果、そうした処遇が叶わない身元不明の人で、自殺や心中、急病や飢餓などによる行き倒れ、災害や事故による不慮の死を遂げた人々、果てには江戸時代以前の、土地にまつわる有名無名の合戦などで亡くなった人々は、この世に強い執着・執念や、特定の誰かに対する恨み・憎しみなどを残したまま死んだとされ、魂の安楽が得られないまま、命が尽きた「場所」を永遠にさまよい続ける。果ては生きている人々に「祟り」などの災いをもたらしたり、目の前に現れて、自分の無念の死に対する辛さや悲しみを訴えたり、きちんとした埋葬、そして僧侶による供養を求めるものだと捉えられるようになった。府中の三千人塚の言い伝えも、そのような人々の考え方によって「生み出されたもの」だと考えられる。
言葉では説明できない非科学的な何かの魅力
科学万能の現代にあっても、我々はどうしても、「死者のゆくえ」を気にしてしまう。そして、「祟りがある」「霊が出る」とされる「場所」を、恐れながらも、そこへあえて近寄ろうとすることもある。そもそも「死」とは、人間にとって避けられない到達点ではあり、なおかつ、一体どうなるのかがわからないものだ。だからこそ、「好奇心」「学生ノリ」ばかりではなく、「自分」のゆくえを、過去の死者の到達点や行き着く先の「シンボル」となっている「場所」を通して、見極めたいという気持ちが、心のどこかにあるのではないか。
三千人塚は今も地域の方々の手で手厚く供養されている
三千人塚の板碑は、古色蒼然とした青い石にしか見えないが、壊されることなく、わざわざ雨よけや、板碑の前に、左右に花を生ける入れ物や、水をお供えする水鉢まで設けられ、きれいに掃除されている。こうしたことから、この塚そのものが、地域の人々に丁寧に守られてきたことを示している。三千人塚に限らず、地域に古くから残されてきた塚の前でそっと手を合わせ、「自分もいつか、あなた方のそばに行く」と祈る機会を持つことで、今までの自分、今ある自分、そしてこれからの自分を見つめ直すことができるのではないだろうか。
参考文献
■斎藤幸雄(編)『江戸名所図会 2』1922年 有朋堂書店
■府中市史編纂委員会(編/刊)『府中市史史料集 1・2』1964年
■府中市史編纂委員会(編/刊)『府中市史史料集 第10集』1966年
■とうきゅう環境浄化団体(編/刊)『多摩川‘76 資料編』1976年
■芳賀善次郎『旧鎌倉街道 その道すじと沿道の史蹟を歩く』1978年 さきたま双書
■甲野勇「(遺稿)武蔵府中三千人塚についての覚書」府中市郷土の森博物館(編/刊)『府中市郷土の森紀要』第7号 1994年(1−8頁)
■深澤靖幸「武蔵府中三千人塚遺跡の再検討 −板碑の建つ中世墓地」府中市郷土の森博物館(編/刊)『府中市郷土の森紀要』第7号 1994年(9−33頁)
■佐藤弘大『死者のゆくえ』2008年 岩田書院
■関口慶久「三千人塚阿弥陀三尊種子板碑」日本石造物辞典編集委員会(編)『日本石造物辞典』2012年(277−278頁)吉川弘文館
■土居浩「異常死者葬法の習俗をめぐって 『日本民俗地図(葬制・墓制)』記載資料を読み直す」村上興匡・西村明(編)2013年(127−158頁)森話社
■室井康成『首塚・胴塚・千人塚 日本人は敗者とどう向きあってきたのか』2015年 洋泉社
■深澤靖幸「多摩川流域の板碑」千々和到・浅野晴樹(編)『板碑の考古学』2016年(127−145頁)高志書院
■立正大学博物館(編/刊)『【立正大学博物館 第10回特別展】経塚の諸相』2016年
■野村純一「怪異伝承と民俗 七不思議とは何か」(1983年)大島廣志『やま かわ うみ別冊 野村純一 怪異伝承を読み解く』2016年(96−105頁) 有限会社アーツアンドクラフツ
■「都市跡 三千人塚」『東京都府中市ホームページ』
■「三千人塚」『府中観光協会』