埼玉県秩父郡長瀞町(ながとろまち)には、日本一のものがある。それは高さ5.35m、幅1.2m、厚さ12cmの秩父青石(あおいし)こと、緑泥片岩(りょくでいへんがん)でつくられた「野上下郷石塔婆(のがみしもごういしとうば)」、日本の石造物として板碑(いたび)に分類されるものだ。
「野上下郷石塔婆」とは?
南北朝時代、南朝の武将・新田義貞の家臣に、阿仁和基保という武人がいた。基保は当時の樋口村下郷に仲山城を築き、土地を治めていた。基保の息子で2代目当主の直家は、近在の児玉郡に位置していた秋山城の腰元と恋愛沙汰になってしまった。そこで戦さが勃発し、仲山城は落城してしまう。直家は討ち死にしたものの、その妻は能登に逃れ、仏門に入って尼となった。その後、直家の十三回忌に当たる1369(応安2)年に、妻と残された一族は樋口村に戻り、直家の追善供養のためにこれを建てたという。
そもそも板碑とは?どの地域に多く見られる?
そもそも板碑とは「板石(いたいし)塔婆」とも呼ばれ、「塔婆」とは、釈迦入滅後、その遺骨(仏舎利)を8箇所に分配した奉安施設、ストゥーパが祖型であって、現在の墓石や、何かを記念・顕彰するための石碑とは大きく異なるものだ。地面から見て石の先を三角形にし、その下に2筋の切り込みを入れる。そしてそこから少し間隔を空けたところに本尊となる梵字や仏などを表し、下段に造立年月日や供養された人の忌日、造立の趣旨などを刻み込み、石の台に据えたものである。今日我々が知る墓石や石碑よりも厚みがなく、さながら「板」のように見えることから「板碑」と呼ばれている。そして板碑は主に関東圏でさかんにつくられ、長瀞のもののように、秩父など、荒川上流域で採れた緑泥片岩製のものは「武蔵型板碑」と呼ばれている。12世紀ぐらいに出現し、13世紀以降急速に広がった。全国に5万2000基ほど存在する。日本の他の地域では、花崗岩(かこうがん)や粘板岩(ねんばんがん)でつくられもしたが、緑泥片岩のような整形、そして堅牢さがなかったことから、野上下郷石塔婆をはじめとする武蔵型石碑のように、現在でも当時の形をとどめているものは極めて少ない状況だ。また、武蔵型板碑の原料は採石場があった秩父から荒川を使って各地に運ばれていたと推察されることから、東は茨城県の小見川流域、西は長野県東部、北は群馬・栃木両県の南半部、南は神奈川県の三浦半島、千葉県の房総半島中央部までの範囲に分布している。
板碑はどのように伝わった?またその形にどんな意味があり、どんな目的で建てられた?
そして板碑は仏教伝来、そして伝播に伴って、中国や朝鮮半島から伝わった多層塔・多重塔・宝塔・五輪塔・宝篋印塔・笠塔婆・無縫塔など、名称はともかく、我々がいつかどこかで「見たことがある」ものとは異なり、日本で生まれ、独自の発展を遂げた造形物である。
この板碑が旧来の造形物と大きく異なる点は、形ばかりではない。死者の追善供養のために肉親縁者が造立したものの他、「逆修(ぎゃくしゅう)」、つまり造立者が生前にあらかじめ功徳を積むために建てたものがあることだ。本来逆修は中国仏教に起源を持つものだが、日本においては末法思想が広がった平安中期に始まった。例えば当時の高僧が衆生逆修のために阿弥陀仏が法蔵菩薩だった時に立てた四十八願に擬して、四十八講を行ったことなどが挙げられる。
こうした板碑のある種のブームや伝播に、仏教界における「逆修」にまつわる諸行事がさかんに行われていたことが、大きく影響した。しかも板碑は阿弥陀浄土系に限られたものではなく、日蓮宗など他の宗派のもののみならず、庚申・日待・月待供養など、必ずしも「正統」な仏教とは言えない、日本における神仏習合の神々を祀ったものも立てられるようになっていった。
板碑が廃れていった経緯
こうした多種多彩な板碑は14世紀半ば過ぎをピークとして、徐々に廃れていく。それは逆修信仰が興隆したことにより、最初に紹介した長瀞の板碑のように、関東各地に勃興し始めた武士など、土地の有力者や高僧の追善という当初の目的が薄れ、庶民集団によるものが増え、板碑の規模が縮小していったこと。また、ほんのわずかだが、1440年代に現世利益を求める人々が板碑を多く造立したことはあったが、全盛期ほどの数や規模ではなかった。その後16世紀末に戦国時代が到来した。土地の領主や大名が築城に多くの石工を動員する必要が生じたことに加え、石材そのものを板碑に回す余裕がなくなったこと。更にその後、戦乱が鎮まった江戸時代においては、死者を埋葬した墓に石の墓標を立てる習慣や、仏壇の中に安置する位牌が登場したことから、追善供養のために、わざわざ板碑をつくる必要がなくなったことが原因とされている。
最後に…
今日の我々はかつてのように、自分の身内を供養する、或いは生きているうちに自分自身の功徳を積むために、わざわざ板碑を立てることはない。板碑を造立することだけが、亡くなった人を節目の年に祈念すること、自身の仏教への帰依の証とは言えない。費用や場所の問題もある。逆修に限って言えば、現代、「逆修」に近いことを挙げるなら、生前葬や、生前戒名などがそれに充当する。しかしそれは、当時の人々を強く捉えていた阿弥陀仏への信仰、極楽往生を求める心など、板碑をつくらずにいられなかった情動とは大きく異なるものだ。昔がよくて、今がよくないとは一概に言うことはできない。葬儀や供養も人の心同様、時代を反映し、それに即した形でなされることは当然のことだからだ。
参考文献
■小川国平『修訂 板碑入門』1978年 国書刊行会
■飯野頼治『秩父ふるさと風土図』1982年 有峰書店新社
■埼玉県(編)『新編 埼玉県史 通史編 2 中世』1988年 埼玉県
■播磨定男『中世の板碑文化』1989年 東京美術
■埼玉県(編)『新編 埼玉県史 図録』1993年 埼玉県
■田代脩・塩野博・重田正夫・森田武(編)『県史11:埼玉県の歴史』1999年 山川出版社
■星野英紀「逆修」福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄(編)『日本民俗大辞典 上』1999年(478頁)吉川弘文館
■飯野頼治『秩父95コース探見ガイド 地図で歩く秩父路』2006年 株式会社さきたま出版会