小津安二郎と黒澤明は日本を代表する映画監督であるが、その表現方法は対照的で、私は人知れず「静の小津」「動の黒澤」と呼んでいる。若い頃は、黒澤の速いテンポで刺激的な画面に興奮し、おもしろいと思った。それに比べ、小津作品はゆったりしたテンポでたんたんと静かに話が進み、退屈な感じがしたものである。
生誕100年周年の小津安二郎
小津監督の「生誕100周年」にあたった2003年は、日本はもとより海外でも記念イベントが目白押しで、ゆかりの茅ケ崎でも「小津安二郎生誕100周年茅ケ崎映画祭」が2日間開かれた。4本の映画が上映され、出演者だった有馬稲子と司葉子の井上和男監督(小津監督の弟子)との対談もあった。ロビーで小津監督に関する佐藤忠男(映画評論家)と蓮實重彦(仏文学者、元東大総長)の本を2冊買い、小津が脚本家の野田高梧と籠って脚本を書き上げた旅館「茅ケ崎館」を見学した。
更にNHKのBSで、小津監督生誕100周年記念特集で、現存する映画と小津ゆかりの人物や土地を放送するのを観て、静かだが心に染み入るような映画を再認識するとともに、揺るぎない信念とこだわりを持ち、映画と人と酒をこよなく愛し、洒脱でおしゃれな人柄にも好感を覚え、すっかりファンになってしまった。なお、小津のこだわりについては、中野翠の「小津ごのみ」に詳しく書かれている。
小津安二郎の映画の変遷
初期の映画はアメリカ映画の影響が大きく、ギャグ満載の喜劇、ギャング物など模倣ではあるが、当時としては斬新で、私はアメリカかぶれの若さを微笑ましく思った。その後、「喜八もの」と呼ばれる東京下町の人情物を撮り、戦後は大半が親子の深い愛情や別れ、家族の崩壊を描いた作品で、いわゆる「小津調」と呼ばれる格調高い独自の映画芸術を完成させた。なかでも「東京物語」は最高傑作と言われ、2012年、世界でもっとも信頼があるイギリスの映画雑誌のアンケートで、世界の映画監督が選ぶ映画のベスト・ワンに輝いた。日本的で世界に理解されるか懸念された小津映画は世界のプロにも認められたのだ。そしてヴィム・ヴェンダース、アキ・カウリスマキ、ジム・ジャームッシュ、 アッパス・キアロスタミ、侯孝賢など世界の映画監督にも大きな影響を与えた(勿論、日本の幾多の監督たちにも)
小津安二郎と原節子
原節子はともすれば演技より美貌が先行していたが、小津監督の紀子三部作とも言われる「晩春」「麦秋」「東京物語」などで健気でつつましい女性を演じ、名実とも大女優となった。小津は原を評して「芸の幅ということからすれば狭い、しかし原さんは原さんの役柄が(顔付や性格に)あってそこで深い演技を示すといった人なのだ。実際、お世辞ぬきにして日本の映画女優として最高だと思っている」と褒めちぎっている。1963年、小津監督死亡後、原節子は銀幕から消え、伝説となった。
小津映画で印象に残る葬儀シーン
1つは「東京物語」で、母の葬儀後の料亭の席で、長女はちゃっかり母の形見として、夏帯をせしめて慌ただしく帰京するが、父は上京の際、1番親切にしてくれた血のつながらない戦死した次男の嫁に、妻が大事にしていた懐中時計を形見として受け取るよう頼み、次男のことは忘れて、再婚するよう促すのだった。この二人の会話がこの映画の最大の見どころと言える。
2つ目は「小早川家の秋」のラストの火葬場のシーンで、煙突から上る煙を見て、農婦が「若い人やったら可哀そうやなあ」と言うと夫は「けど、死んでも死んでも、後から後から、せんぐりせんぐり生まれてくるわ」と答える。これは人間の輪廻を表していて、印象に残る台詞である。
小津安二郎の死と墓碑銘
小津の人生で戦争体験ほど悲惨なものはなかっただろう。同じ部隊の仲間が次々と戦死し、小津自身も何度か「ヤラれた」と思ったことがあり、生きて帰れるとは思っていなかった。
小津は戦争体験があまりに生々しかったのか、戦争映画は1本も撮っていない。小津は戦死しなかったが、1963年12月12日の満60歳の還暦を迎えた日に癌で亡くなった。通夜は翌日、自宅で行われたが、弔問に訪れた原節子と杉村春子は三和土で号泣したとのことである。葬儀は築地本願寺で、松竹と日本監督協会の合同蔡で行われた。お墓は北鎌倉の円覚寺にあり、墓碑銘は円覚寺管長だった朝比奈宗源揮毫の「無」が刻まれている。輪廻や無常を描き、画面のカットや言葉少ないセリフが「禅」にも通じると言われた小津にふさわしい墓碑銘だ。
酒好きだった小津のためにファンが日本酒、ビール、ウィスキーを供えている。近くには木下恵介監督の墓があり、参道の反対側の松嶺院には小津作品では落第生と自称していた田中絹代と、小津と木下両監督の映画に出演し、共に独身だった二人が仲人をした佐田啓二の墓もある。あの世で4人は映画談義をしていることだろう。