「死」という概念と花には強い関連性がある。葬式の場での花輪や供花然りお墓や仏壇に挿す花然り、あまつさえ花言葉にも「死」を関連させる花言葉も存在する。そして「死」には恐怖や暗さの対象でもある。花自体にはネガティブなイメージよりポジティブなイメージが先行するにも関わらずどうして「死」を表現できるのだろうか、考えてみてほしい。
散ることと死が関連付けて表現された軍歌「同期の桜」
花の散り際を死と連想させる種類の花もある。椿などは散るときに首元からぼとりと落ちると縁起が悪いと武士らには嫌われていた。
次に桜も散り際が一番きれいだと感じる人間も多く存在する。個人的に日本人にとって桜が最も死を含めた暗さを連想させる花なのではないかと思っている。例えば戦時中の軍歌である「同期の桜」の歌詞中には「みごと散りましょ 国のため」とあるがこれは国の為に殉死することを意味し「同じ兵学校の 庭に咲く」「春の梢に 咲いて会おう」について前者は軍人としてのスタートを意味した「咲く」を意味し、後者は死後の世界で同期と会うという「返り咲く」ことを意味していると感じた。
文学作品にも多用されている桜を用いた死の表現
これだけではなく文学作品にもよく桜に死や畏怖や不気味さを表現する作品がある。坂口安吾の短編「桜の森の満開の下」や梶井基次郎の短編「櫻の樹の下には」などが挙げられる。桜の花びらが風になびきながら散る様は「桜に攫われそう」とたびたび表現される。この表現方法は典型的とも言ってもいい程によく見られる。桜には死と生を同時に魅せる神秘性があり、それが作品として表現しやすい媒体なのかもしれない。
花に感じる「あはれ」
上記の話をぶった切るようだが、軍事が強化される以前には桜は死と連想するものではなく貴族や気品、優雅さを表していた。桜の儚さを表現するようになるのは本居宣長を始めとし、近代になってからが主流になっていったようだ。陽と陰の同居による「あはれ」という感情から生まれたものだろう。私にとっては向日葵もそれらと同じ類の感情がある。夏、つまり盆の時期に咲くキク科の植物で真昼に見てみると明るさのみを感じるかもしれないが、夜に見る向日には畏怖の念が芽生える。これは桜に感じる神秘性と似ている。
表裏は一体 一方的ではない
時代の流れによって世間の花への感じ方は変化するのかもしれないが、自分自身はどの花にどう感じるのか愛でるだけの対象ではなくあらゆる方角から見て欲しい。私が向日葵から感じ取ったように物事の表と裏を自分だけの感性を発見できたのならそれは創造性の発展に繋がり、新しい芸術的価値が生まれる事に繋がる一歩なのではないのだろうか。