明治・大正時代から、戦中戦後。戦後復興から高度経済成長。更にバブル経済の狂騒から崩壊に至った20世紀末まで、三井三池(みいけ)炭鉱万田(まんだ)坑・四山(よつやま)坑を擁し、「炭都」として活況を呈していた熊本県北西部の荒尾市には、「妙見石室(みょうけんせきしつ)」と呼ばれる、珍しい遺物がある。
石室とは祠や厨子のこと
石室とは屋根を備えた石造りの祠(ほこら)または厨子(ずし)のことだが、この妙見石室とは、1247(宝治元)年から、野原庄(のはらのしょう)と呼ばれた、現在の荒尾市全域から玉名(たまな)郡長洲町(ながすまち)一帯を治めていた小代(しょうだい)氏が築いたされる山城のひとつ、袴嶽(はかまだけ)城の山頂に祀られていたものが、時を経て、現在では周囲に民家や道路が走る、原万田(はらまんだ)字妙見に移され、今日に至っているものだ。
高さは123.5cm。屋根は後に造られたものを乗せたものだというが、1524(大永4)年造立で、すっかり磨耗してしまっているため、一見、単なる石の塊にしか見えないとはいえ、拓本によると、前面の両側には狛犬が彫られ、右の阿(あ)側には、「願主應山慶善記室禅師」と「檀那/道範/妙順」、左の吽(うん)側には、造立年と「妙珎/春永/佛師 浄秀/大工 道順 妙清」と彫られている。本尊は中央上部に釈迦如来を示す種子(しゅじ)「バク」、右に日輪、左に月輪が彫られ、その下には四角く囲いが設けられ、左には剣を持った不動明王、右には幢幡(どうばん。旗のこと)を持った毘沙門天。そして中央には髪を垂らした妙見菩薩。さらにその前には眷属(けんぞく。従者のこと)の亀と蛇が彫られている。
妙見とは信仰の一種
妙見石室の「妙見」とは、古くは中近東の古代アッシリアやバビロニアに始まり、中国では紀元前2000年以上前の堯(ぎょう)・舜(しゅん)王が信仰していたと言われる、北極星または北斗七星を神格化した天部(てんぶ。天界に住む者のこと)の尊称だ。「妙見菩薩」「北辰(ほくしん。北極星のこと)菩薩」とも言われる。
7世紀頃に日本に伝わってからは、主に無病息災や眼病平癒に功徳(くどく)があるとされているが、密教では護国・除災のために修する「妙見法」の本尊として星曼荼羅の中心に据えられる他、日蓮宗でも祀られている。
日本全国に散見する妙見信仰
こうしたことから日本全国に散見する妙見信仰だが、大阪の能勢(のせ)妙見山(日蓮宗)、福島県の相馬妙見堂(相馬中村神社)、そして熊本の八代(やつしろ)妙見(八代神社)が「日本三大妙見」と言われている。
荒尾市までおよそ100km離れた八代の地に妙見が伝わったのは、『妙見宮実紀』(1730年)などの古伝によると、白鳳9(669年または680)年に大陸から妙見神が来朝し、球磨川(くまがわ)河口の竹原(たけはら)の津に上陸したのが始まりだという。しかしその「妙見」は、歴史家の蓑田田鶴男によると、日本に伝わった当時の「妙見」は現在我々が知る、仏教と神道とが混淆したものとは異なり、隋・唐代の中国において発達していた天文学と、「道(どう)」との習合による、北極星や北斗七星を祀った、神仙的かつ呪術的作法に則った形のものではなかったかと考えられている。
日本の奈良時代(710〜794年)当時、唐代の中国にインドから密教が伝わった。その際、『妙見神呪経』の漢訳が行われた。それが日本にも伝わり、妙見菩薩の利益(りやく)談も併せて受け入れられた。それゆえ主に畿内地域において、密教と、先に挙げた「原始的」妙見信仰が習合し、華々しい興隆を見たという。
荒尾市の妙見石室の「妙見」とは
平安時代(794〜1192)になると、日本古来の神道と仏教とが混じり合い、寺の中に「鎮守社」が置かれたり、神社で仏事・法事を行ったりするようになる。更にそれは、日本の神は本来、仏または菩薩だが、衆生(しゅじょう)を救うため、仮に神の姿となってこの世に現れるという本地垂迹(ほんじすいじゃく)説と発展し、多くの人々に受け入れられた。そうした中、「妙見」は神格化された北極星または北斗星の「本地仏(ほんじぶつ)」として、仏教の「菩薩」と合体したのだ。それゆえに、その「描かれ方」も時代の変遷に伴って、様々な形を取ってきた。
荒尾市の妙見石室の「妙見」の場合は、髪が長く、袍(ほう。丈の長い上着)を着て、その下に胸甲を身につけているという、中世期の「妙見」に典型的な「童子形」で表現されている。
石室が作られた理由
また、信仰対象として、このような石室が作られた理由は、八代に大陸から妙見神が来訪したことばかりではなく、荒尾市を治めた小代氏にも関連があると考えられる。
小代氏はもともと、武蔵国入間郡(現・埼玉県)小代出身で、「関東武士」の代表格である武蔵七党の中の児玉党に属していた。源頼朝の平家追討戦に参加した際に軍功を挙げたことから、はるか離れた西海道(さいかいどう。現・九州)の野原庄の地頭職に任ぜられた。それ以後、この地を代々治めた。南北朝時代、戦国時代と覇権争いは続いたが、1577(天正7)年頃には1300町を領するほどの力を誇っていた。
妙見信仰が荒尾市に伝わった経緯
しかも「妙見」信仰は特に中世以降、北斗七星の第7星が「破軍星(はぐんせい)」とされることから、千葉氏(下総国)・相馬氏(下総国相馬郡)・大内氏(周防国)などの有力な武士の間で、弓矢の神として尊崇を集めていた。そうした影響から、小代氏の出身地である武蔵国入間郡周辺には、例えば、源頼朝による造営と伝えられる我野(あがの)神社(埼玉県飯能市)など、「妙見」を祀った大小さまざまな寺社や路傍の石像が存在する。それゆえ、もともとの信仰基盤に加え、小代氏の移動と伴い、「武士の守り神」としての妙見信仰が新たな形でこの土地にもたらされたのではないか。
500年たった今でも遺っていることの意味
元々は中近東に起こった、北極星・北斗七星の「神」が、時と場所を超え、流れ流れて、はるか彼方の日本、熊本県荒尾市の石室の中に現在、ひっそりと佇んでいる。そしてその「神」は、500年近く、戦国時代から平成が終わりつつある現在に至るまでの歴史的光芒、それに伴う多くの人々の誕生と死をじっと見守ってきた。磨耗し、何が彫られていたかははっきりとわからなくなってしまっているが、願主の應山慶善記室禅師や檀那の人々の願いを込めて、袴嶽山頂に佛師浄秀、大工の道順・妙清によって、当時の時代を反映する童子形で造られ、祀られていた。場所が移動してしまったとはいえ、妙見様を祀る貴重な石室だから壊さないのは当然だと、地域の人々は守り続けてきたのだろう。しかし日本の歴史の中で、地震や台風、大雨・洪水などの自然災害、戦国時代の合戦、明治期の廃仏毀釈、炭鉱開坑、第2次世界大戦中の空襲、宅地開発や道路拡張、工場建設、何かの祟りや呪い話…など、石室が「いらないもの」として「壊される」チャンスはいくらでもあった。それを思うと、石室が壊されることなく、存在し続けてきたことはある意味、奇跡だと言える。
最後に
後100年、200年、荒尾市の妙見石室に限らず、日本全国の、必ずしも大きなものではない、朽ち果てた宗教的遺物が人々の心の拠り所であり続けること。そして今度は荒尾市から逆に中近東に向かって、何百年、何千年もかけて、文明の栄枯盛衰、その中で生きる多くの人々の生き死にを超えつつ、「妙見」神の姿形やありようを変化させつつ「里帰り」することを祈らずにはいられない。
参考資料
■八代市史編纂協議会編纂委員長西村光弘・蓑田田鶴男(編)『八代市史 第2巻』1970年八代市教育委員会
■下中邦彦(編)『熊本県の地名 日本歴史地名大系 44』1985年 平凡社
■羽矢辰夫「妙見信仰」「妙見菩薩」古田紹欽・金岡秀友・鎌田茂雄・藤井正雄(編)『佛教大事典』1988年(955−956頁)小学館
■中山慧照『全國石佛石神大事典』1990年 株式会社リッチマインド
■齋藤建夫(編)『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典 43 熊本県』1998年 株式会社ゼンリン
■中村康隆「妙見信仰」今泉淑夫(編)『日本仏教史辞典』1999/2016年(986−987頁)吉川弘文館
■松本寿三郎・板楠和子・工藤敬一・猪飼隆明(編)『県史 43 熊本県の歴史』1999/2012年 山川出版社
■平木菁「石造物」荒尾市史編集委員会(編)『荒尾の文化遺産 荒尾市史別編』2003年(84−164頁)荒尾市
■荒尾市史編集委員会(編)『2008(平成20)年度 荒尾市史 前近代資料集』2009年 荒尾市
■大田幸博「荒尾の中世城跡」荒尾市史編集委員会(編)『荒尾の文化遺産 通史編』2012年(399−449頁)荒尾市
■二階堂善弘「妙見信仰と真武信仰における文化交渉」『東アジア文化交渉研究』第5号 2012年(11−22頁)関西大学文化交渉学教育研究拠点
■『真言宗 智山派 梅松山 円泉寺』HP
■『ユネスコ無形文化遺産 八代妙見祭』HP