セレモニーホールで「人形供養」をしますという広告があった。私たちは、モノを捨てることにこだわりを持つ民族のようだ。小正月に左義長がある。正月飾りを捨て難いとご先祖様が考えた儀式だろうか。供養というと仏教だが、神社で何かを燃やす行事も小さなお葬式に思えてならない。そういえば、「針供養」もニュースで観た事を思い出した。私が知らぬだけで他にも色んな供養があるのかもしれない。
モノのお葬式
たまたま見つけた「人形供養」という言葉が気になってネットで検索してみた。平安時代起源説があり、全国各地で行われていることが分かった。だが、そもそもの始まりはなんなのだろう。人の形をしているものだから魂があるモノとみなしたのだろうか、勝手に想像してみた。
子供のおもちゃや教科書、答案用紙などを捨てるのに親は躊躇する。写真とは異なる感情がる。親にしてみれば、それが子供の成長の記録そのものなのだろう。処分するのにためらいがあるのはもっともなことかもしれない。収納スペースが許せば全部取っておきたいときっと思っているに違いない。
用済みだから捨てるという合理的な考え方が及ばぬ世界だ。針供養も仕事道具の針にお世話になっているという感謝の気持ちを表したものなんだろう。この国では色々なものがモノに宿る。確かに、お別れがゴミ袋というのはどうも心の収まりが悪い。
ヒトだけでなく、モノにも魂が宿ると考える日本人
供養は何も死者限定ではないようだ。モノに魂が宿っているという考えが日本人だけなのか私は浅学でわからない。特別なモノを捨てる際に感謝の気持ちや何やら得体の知れぬ感情が湧き出て来て厳かに送り出そうという気持ちが自然と涌く。ゴミ箱に投げ捨てる際にも一瞬のためらいがあることもある。心に残るものではないが、日々の暮らしにもそのような気持ちが涌いては消えているように思う。
人形や針を極楽浄土に送ろうなんて真剣に祈る人はいないだろうが、何かしらの期待を神仏に託しているような気がする。抽象的でじれったいのだが、何とも不可思議な感情がこのモノの供養にはある。モノへの感情を供養という形にして、心の整理をしているとも言えるかもしれない。○○供養のような別れの儀式でもしないと心の治まりがつかないのだろう。テレビで観たゴミ屋敷がふと浮かんだ。そこには打ち捨てられたモノたちの魂が成仏できずに彷徨っているのだろうか。
古くから伝わるモノの供養
歳時記に神仏に奉納したものを焼く行事がある。どんど焼(左義長のことをこのように言う地方が多いことを今回初めて知った)などという。人形や針供養などは、このような慣わしが姿かたちを変えて行われているもののように思えてきた。我々が物を大切にする精神は、代々親から躾けられたものだろうが、その源ははるか千年?以上昔にあってその流れは延々と現代に続いている。そう思うとページの片隅の広告の印象が変わるのだった。