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藤田田と三人の男 太宰治、山崎晃嗣、カルロス・ゴーン、それぞれの躓き

人が生きている限り、決して避けられないことのひとつが、「自分以外の誰かの死に遭遇すること」だ。それは自分の祖父母、両親、兄弟姉妹、配偶者、親戚などの身内、近所の人、学校のクラスメートや職場の仲間、或いはテレビや映画などで活躍する芸能人や著名人…そうした中には時に、不慮の事故、急な病気、更には自ら命を絶ってしまった人々もいるかもしれない。


藤田田が体験した、ある二人と交わした自殺直前の会話とは

2018(平成30)年の日本における自殺者は警察庁によると、総数20598人。その内訳は、男14125人、女6473人となっている。特に東京都は2248人と、決して少ない数ではないため、電車に飛び込んでしまった人による「人身事故による遅延」に遭遇したことがある人を含めると、誰かしらの自殺に対峙することになった人も多いと思われる。

しかし、若いうちに、時代を騒がせた人物が自殺する前に、偶然言葉を交わす機会があった。それも2人も…となると、かなりのレアケースだろう。そのような珍しい体験をした人物とは、日本にハンバーガーを根づかせた、大阪生まれのカリスマ経営者・藤田田(でん、1926〜2004)だ。


一人目は太宰治

藤田が出くわした1人目は、作家の太宰治(1909〜1948)だ。戦争が終わった後、当時東京大学の学生でありつつも、ビジネスを模索していた藤田は、銀座の酒場でよく太宰に一緒になっていた。そこで藤田は年長で、しかも売れっ子の大作家のひとりだった太宰に向かって、「お前みたいな敗北主義の小説は嫌いだ。日本は戦争に負けたけど、これからは俺のような野武士みたいな人間が必要な時代なんだ」と言い放ったことがあるという。

そんな藤田だったが、太宰の死の前日、たまたま一緒に酒を飲んでいた。その時の太宰の様子から、藤田は後々、太宰の死は自殺じゃないと言い切っていた。


二人目は山崎晃嗣

そしてもうひとりが、山崎晃嗣(あきつぐ、1923〜1949)。戦後初の金融事件「光クラブ事件」の首謀者であり、後に三島由紀夫の『青の時代』(1950年)や高木彬光の『白昼の死角』(1960年)などに描かれたセンセーショナルな人物だ。

山崎は藤田よりも3歳年長だったものの、大学内で互いに顔見知りだった。藤田から見た山崎は「彼ほど頭のいい男は見たことがありません。空で複雑なかけ算をして、パッと答えを出すんですから」。一方、山崎から見た藤田は、「お前ほど心臓の強いヤツに会ったのは初めて」だったという。

山崎は東大始まって以来の秀才と言われた人物だったが、その知性を活かして学問に専念するのではなく、学業の傍ら、「光クラブ」という貸金業を始め、羽振りのいい生活をしていた。とはいえ、1949(昭和24)年に物価統制令違反で逮捕されてからは、クラブの資金繰りが苦しくなってしまう。それを受けて山崎は「契約は人間と人間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。そのために死ぬ」などと記した遺書を残して服毒自殺を図った。

山崎は死の直前、藤田に「クラブが行き詰まった」と漏らしていた。それに対して藤田は、「法的に解決することを望むなら、君が消えることだ」と冷徹かつ極めて「現実的」なことを言い放ったという。後に藤田は当時を振り返り、「山崎はカネの虚しさに絶望して死んだが、私はその使い道を模索して生き残った」と述べている。


終戦の日、藤田田が叫びはしゃいだこととは?

そんな藤田は日本の敗戦の日、1945(昭和20)年8月15日、旧制松山高校の学生寮にいた。同級生は敗戦のショックで号泣していたが、藤田だけがひとり、「日本は自由になる!」と思いながら、大声で叫んで、はしゃいでいた。しかし藤田にとっての当時の日本は、必ずしも「自由」に思えるものではなかった。

「40歳以上の日本人はダメで、使い物にならないと思っていた…(略)…あんな戦争を起こして、日本を悲惨な目に遭わせて、その責任もとらないで、のうのうと役人をしていたり、大企業を経営している」と、世の中に対する反発心を抱きつつ、世間に絶望するのではなく、「自分の商売を続ける!」とあくまでも「マイナス」をエネルギーに変え、自分をポジティブな方向に持っていく考え方をしていた。詳細は本人たちにしかわからないとはいえ、結果的に社会的または個人的な「負」に呑まれる形で「自殺」を選んだ2人とは大きな違いがあったのだ。


ポジティブ思考だった藤田田の経歴とマクドナルド一号店

太宰、そして山崎という、戦後日本のありようを体現し、そして消えて行った人物を間近に見、それらに動揺したり引きずられたりすることなく、したたかに生き延びた藤田とは、どのような人物だったのだろうか。

藤田は太宰に主張した「野武士」のように、そして山崎同様、東大在学中の1950(昭和25)年、藤田商店を立ち上げ、その当時の日本ではなかなか手に入れることが難しかった高級雑貨輸出入業を手がけるようになる。それから、1971(昭和46)年、アメリカのマクドナルド社と藤田商店の折半出資により日本マクドナルド株式会社を設立した。

第1号店は、銀座三越の1階だった。オープン初日はレジスターが壊れるほどの勢いで、「日本は米食の国だから、ハンバーガー屋なんて、3日で潰れる」と揶揄する向きもあったが、連日2000人の客が訪れるほどの盛況ぶりだった。しかも今となっては珍しくない光景であるが、かつては「行儀が悪い」と「戦中派」の大人たちが眉をひそめて子どもたちに禁じてきた行動である「歩き食い」、すなわち、銀座の歩行者天国でハンバーガーをかじりながら歩くことが、若者たちにとって流行最先端のファッションとなったのだ。


藤田田の「田」という名前の由来は?藤田田の経営哲学とは?

藤田田の「田」という名前は、クリスチャンだった母親が、「正しいことが言えるように」と、「口」に十字架を入れて「田」にしたということだったが、「名前負け」することなく、単に時代を読むのに聡い「やり手」の経営者というだけではなく、持ち前の雄弁さや、その「経営哲学」も注目された。

例えば、「『女』と『口』を狙え」。「男は働いて金を稼いでくるもので、女は男が稼いできた金を使って生活を成り立たせるのが役割。だから古今東西を問わず、儲けようと思えば女を攻撃し、女の持っている金を奪うこと」「女を狙って商売すれば必ず成功する。反対に男からカネを巻き上げるのは女の10倍難しい」として、「女」を狙ったハンドバッグや靴などの高級品、そして「口」、すなわち人々が毎日欠かすことができない「食」をターゲットとしたビジネスの推奨。そして「人間は12歳までに食べていたものを一生食べていく」。「ハンバーガーで日本人を金髪に改造する」など…。

しかも藤田の場合、面白おかしく人の目を惹くための話題づくりのためにそのようなことを言っていたわけではなかった。日本の戦後生まれが人口の過半数を占めなければ、ハンバーガーは売れないとして、昭和20年代生まれ以降が人口の半分に達する年、「1975(昭和50)年」を割り出し、第1号店出店以降の店舗展開を着々と進めたのである。また、貿易商を営んでいた若い頃の藤田は、頻繁に欧米を訪れていた。そこで自分を含めた日本人と欧米人との明らかな体格や体力の差に驚いていた。しかも藤田は今日の日本では当たり前の「国際化」「グローバル化」の必要性を痛切に感じ、日本の「国際化」、そして国際的な競争力に打ち克つことを強く希求した。そのためには「金髪」に象徴される欧米人に負けない体格や体力づくりが肝要である。藤田は日本人をアメリカの巨大企業「マクドナルド」の「ハンバーガー」を通して、戦前までの日本・日本人を「変えよう」としていたのである。

しかもこうした藤田の「発言」や「哲学」を支えていたのが、世界中で最も「金儲け」が巧みで、しかも古くから国境を超えた「グローバル」な経済活動をなしてきた、また、それが民族としての「宿命」でもあったユダヤ人の「生き様」だった。


ユダヤ人から学んだという藤田田の経営哲学

藤田は1948(昭和23)年、東京大学法学部に入学する。そこで生活費や学費を賄うためにGHQの通訳アルバイトを始めた。当時の普通のアルバイトは1ヶ月3〜400円だったが、通訳は1ヶ月で1万円以上になった。そこで藤田は、ひとりのユダヤ人軍曹に出会う。「ユダヤ人」ということで彼は周りから差別されていたが、彼は貯めた金を同僚に高い金利で貸し、給料の何倍もする車を2台所有し、女性を囲うほど儲けていた。しかも貸した金は給料日が来ると容赦無く取り立て、払えない場合は、配給物資を貸金の担保や利息として取り上げるほど、「シビア」な「ビジネス」をしていた。

周囲の人々は彼を軽蔑しながらも、現実には頭が上がらない状態だった。その様子を藤田は冷静に見つめつつ、そのユダヤ人と組んで、配給物資を回してもらい、それを日本人に転売する、ブローカー的なことを行なっていたという。それはまさに、藤田にとっては「ユダヤ商法の実地訓練」だった。藤田商店を立ち上げた当初、藤田は朝鮮戦争休戦によって倉庫に眠っていた12万袋の土嚢を1袋5円で買い受ける。そして今度は、植民地が内戦状態に陥っていた国の大使館へ行き、土嚢を売り込んだ。するとそこでは土嚢を正規の値段で買ってくれたという。つまり、「商人にとってはタイミングこそが命」ということを、ユダヤ人軍曹を通して学び、もともと大阪生まれゆえの「商売人気質」を有していた藤田の血肉になっていったのである。

とはいえ、藤田は単なる金にがめつい守銭奴というわけではなかった。「人生の問題の99%はカネで解決できるが、後の1%はカネでは解決できない。(それは)信用とか精神とか形にならないものだ。カネは大事だが、無形の精神や形而上のものも大切にしなくては」とも述べていた。それは母親の名付けた「口」の中の「十字架」が、彼自身の中に生きていたのかもしれない。そして若い頃の藤田に「自分だけを信じる姿勢は悪くない。だが、他人の言うことを全て疑ってかかることは、行動のエネルギーを削ぎ、最後には無気力になる。そんなことでは、100年かかってもおカネ儲けはできないよ」と忠告した人の言葉を受け入れる柔軟性、そしてそれを忘れない素直な気質があったからとも言える。


藤田語録「勝てば官軍」と最後の躓き

藤田の敏腕経営によって、1984(昭和59)年、マクドナルドは日本国内で年商1000億円に到達した。それはまさに「ハンバーガー」が日本人の「ソウルフード」のひとつになったことの証しだろう。しかし2000(平成12)年前後から、経営が失速し始めた。それは低価格戦略を取っていた藤田が、「デフレ経済は終わり、数年後にはインフレになる」と景気動向を読み、低価格戦略を止めてしまった。しかし依然としてデフレは続き、再び値引き商戦をする羽目になったこと。そしてハンバーガーに限らず、多種多彩な外食産業による魅力的な食べ物が世に溢れ、消費者にとって、「マクドナルドでなければ!」というほどの魅力を持ち得なくなったこと。更に世界中を席巻した「狂牛病問題」も影響した。2003(平成15)年、マクドナルドからの経営から手を引いた1年後、藤田は心不全でこの世を去ったのである。

先に挙げた「藤田語録」に、「勝てば官軍」というものもあった。それは、「ビジネスの世界には、『勝てば官軍』の論理しかない。『敗者の美学』といったものは、文学の世界だけで意味がある」という、ビジネスの厳しさを語ったものだ。皮肉にも、藤田がかつて一喝した太宰の文学世界は、「敵」に突進する勇ましさや、勝利の凱歌を描いたものというよりも、「敗者の美学」に彩られたものだった。そして山崎は「美学」こそなかったものの、光クラブを経営破綻に追い込んでしまっていた、まさに言葉通りの「敗者」だった。もしも藤田の果敢な「攻め」の経営に陰りが見え始めていた2000年代初頭に、「負ければ賊軍」に転落しつつあった藤田が太宰や山崎のことを思い出して、また再びゼロから「野武士」のようにリスタートしていれば、藤田は死ぬことはなかったのではないか。78歳という年齢は、決して「若死に」ではなかったものの、経営者としての立場を退いてしまったことは結局、藤田にとっての「自殺行為」だったのではないか。藤田は、敏捷さ・粘り強さ・我慢強さ、そして目的を達するためには何ふり構わない泥臭さなどを身上とする「野武士」としては、年を取りすぎてしまっていた。それこそが、藤田の最大の「躓き」だったのかもしれない。


参考文献とサイト

■本宮海太郎「財界怪物伝 3:藤田田の巻(日本マクドナルド)」『月間公論』1999年5月号(54−58頁)財界通信社
■ソニー・マガジンズ・ビジネスブック編集部(編)『常勝経営のカリスマ・藤田田語録』1999年 株式会社ソニー・マガジンズ
■羽根田恵一郎「カリスマ経営者の落日 時代に翻弄されて躓いた怪物 日本マクドナルド藤田田元会長」『政財界』2004年3月号(56−61頁)株式会社政界出版社
■「日本マクドナルド創業 藤田田氏死去」『日本経済新聞』2004年4月26日(夕刊)(1頁)日本経済新聞社
■「成長・利益 両立ねらう 日産新3年計画で『世界3位』」『日本経済新聞』2004年4月27日(朝刊)(11頁)日本経済新聞社
■山田孝一「JAPANESE BILLIONAIRES Forbes 日本の億万長者 Story 2逆風の中の億万長者:日本マクドナルド創業者(故人)藤田田一族 1430億円」『Forbes 日本版』2004年7月号(124−126頁)ぎょうせい
■石川尚子「食事スタイルの変化」江原絢子・石川尚子・東四柳祥子(編)『日本食物史』2009年(334−356頁)吉川弘文館
■大高利夫(編)『日本の創業者 近現代起業家人名事典』2010年 日外アソシエーツ株式会社
■『株式会社藤田商店
■「自殺者数」『警察庁』


ライター 鳥飼かおる
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