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神社の御神体であった石を他の石と置き換えた福沢諭吉と門松を蹴った欅坂46

かつてそして今も、我々の住む現世(うつしよ)とは異なる世界「異界」が存在する。「異界」とは人知を超えた「聖なるもの」の世界であり、我々にうかがい知れない「異形」の世界である。しかし現代の合理主義、科学的世界観において「異界」は迷信と一蹴されかねない。現代社会において「異界」は存在するのか、それは必要なのか。


「異界」との境界

「異界」と現世との間には境界がある。日本書紀によると、「国生みの神」イザナギが黄泉の国へ、亡くなった妻・イザナミを迎えに行くと、イザナミは黄泉の国の穢れによって変わり果てた姿になっていた。驚いたイザナギが逃げると、怒ったイザナミがこれを追ったが、イザナギは現世と黄泉の国の境界である「黄泉比良坂」で「きみは、ここから先には来てはならない」と杖を投げた。これをフナト、クナトという。古事記にも同様の話があるが、このクナトは「異界」と現世の境界であるといえる。

昔の路地の壁にはよく立ち小便除けの鳥居が描かれていた。鳥居に小便をかけることはできない効果を期待してのことだ。この鳥居は人間が触れてはいけない「異界」との境界であった。現代でも鳥居に小便をかける、お墓を蹴とばすなどの行為は、普通の教育を受けた常識ある人ならば憚られるだろう。それは「聖なるもの」への畏敬の念を心に抱いているからである。鳥居や寺門は神域という聖なるものが鎮座する「異界」との境界であり、これをくぐる前に手水で身を清め、一礼をするのが畏敬の念の表現である。


身近な「異界」

「異界」は身近にも存在する。例えば家を訪ねてきた客は「異界」からの使者である。学校から帰ると家の雰囲気が違うことがあった。居間のふすまが開き、母親から客の訪問を告げられ緊張が走る。いつものように冷蔵庫を開けることはせず逃げるように部屋に飛んでいく。親に呼ばれ「異界」に参入し、使者の前で慣れぬ敬語を使う羽目になったこともあった。
折口信夫(1987~1953)は、このような「客」を神と同義語であるとする「マレビト論」を展開したが、子供にとって見知らぬ客はまさに異形の者であり、得体の知れない怖い存在であると同時に、珍奇な土産物や小遣いをくれる有難い存在でもあった。やがて使者は去り、「異界」となった我が家は日常の現世に戻ったのである。
これを社会全体に広げたのが「祭り」である。祭りが行われる「ハレの日」には、収穫物を神仏に捧げ、大いに騒ぎ、踊り、非日常的な空間となる。正月も本来は年神というお客を迎えるハレの日なのである。

お客が「異界」からの使者なら、死者は「異界」へ去り行く者である。日常とは生きることであるとするなら「死」は日常ではない。墓や斎場もまた「死」という非日常的な「異界」との境界である。我々は生きている限り、死ぬことはない。死は異界の領域なのだ。


御神体を他の石に置き換え境界を侵犯した福沢諭吉

福沢諭吉(1835~1901)が少年期に、村の稲荷社の中の御神体を暴いた有名なエピソードがある。社に御神体として置いてあった石を別の石と置き換えて、飾ってあった札を取って捨てた後、神社の周りでお祭りが始まったのを見て、周りの大人が御神体を敬い、畏怖していることを笑ったという。

この話では諭吉は「異界」を迷信として乗り越えた者であり、諭吉の合理主義、科学主義的思考を伝えるものであるとして脱迷信的な思想を持つ人達が好んで引用する。


門松を足蹴にし境界を侵犯した欅坂46

最近、このエピソードを思い出させる騒動が起こった。アイドルグループ欅坂46のレギュラー番組で行われたゲームの内容についてネットの一部で賛否が問われたのである。欅坂のメンバーがこたつの中に入っている物を足で触りそれが何なのかを当てるというものだ(注1)。

このゲームで使用された物のひとつが「門松」で、門松を足蹴にして笑っている光景に批判が寄せられた。門松は単なる飾り物ではない、来訪神であり、後に祖先崇拝とも習合した、年神(歳神)を迎える際の目印、依代などの意味合いがある。つまり異界と現世との境界でもある(注2)。こうした行為に対し批判があるのも、未だに「異界」への畏敬の念が残っているからではないだろうか。


余談だが

この放送ではもうひとつ問題が指摘されている。離れた場所にいるメンバーにもうひとりのメンバーが羽子板でマシュマロを打ち、口でキャッチできた数を競うというゲームも行われた。食べ物で遊ぶ、食べ物をおもちゃにすることは、普通の家庭であれば固く禁じられてきた行為である。少し古い世代ならば「お米には7人の神様がいる」と教えられてきた人も多い。これも人知を超えたものへの感謝と畏れの心、畏敬の念の現れである。


境界を侵犯した福沢と欅坂46

故意であるかどうかはともかく、福沢や欅坂の行為は「異界」との境界を侵犯するものだ。それを憚られることだとする人がいる一方、迷信と一蹴する人もいる。

科学的には天の恵みも地の実りも所詮自然現象であり、物質に過ぎない。そういうことならば、災害や疫病などへの物理的な「恐れ」はあっても、その背後にある何かに対して「畏れ」を抱いたり、感謝する必要はない。このまま科学が発達すれば、現段階では無理でも100年、1000年の果てには完全に自然現象を支配下に置くことは不可能とはいえない。すでにヒトゲノムの解析は終了し、不老不死の実現を公言する学者もいる。

それはどこまでも現世の事象に過ぎず「異界」ではないからだ。「異界」とは決して人間が及ぶことはできない「異なる世界」であり、そのような不合理な存在は科学的世界観においては不必要ということになる。


「異界」が与える意味とは

現代社会でこのような「異界」は必要だろうか。そのようなものは迷信に過ぎずむしろ否定されるものではないのか。筆者はそうは思わない。先述したように我々は鳥居や墓をぞんざいに扱うことはできない。そうした感性は捨て去ってよいものではない。人間は全能の神ではないし、決して神にはなれない。まさにその事実によって、人間が及ばない聖域は存在する。「異界」によって我々は自分たちだけで生きているという傲慢に溺れることなく感謝することを忘れない。

「死」についても同様である。「異界」などは無視して、科学・医学的に見るなら「死」とは生命機能が停止した状態というだけである。しかしそれで割りきれる人は少ない。「死」は単なる「停止」ではないし、死者は「モノ」ではない。ではなんなのか。現世の理ではそれ以上の答えは出ない。「異界」があって初めて「死」は「停止」以上、「死者」は「モノ」以外の何かとして我々の前に立ち現れる。その不合理、不必要な感性こそが、例えばAIなどと、人間を分ける境界である。


ライター 渡邉 昇
真っ白なものは汚したくなる

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