イギリスのロックバンド「クイーン」を描いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒットしている。私が洋楽を聞き始めた1980年代前半、FMラジオからは「レディオ・ガ・ガ」が連日のように流れ、クイーンは多くの音楽雑誌の表紙を飾っていた。ただ、当時の私にはクイーンの音楽性が良く理解出来なかったのだが、そんな私にとってもフレディ・マーキュリーの死は衝撃的なニュースだった。今回は、フレディ・マーキュリーを蝕んだエイズという病と彼の死について振り返ってみたい。
1980年代とエイズ
「エイズ」という病名は1980年代に突如として登場し、原因不明の、薬もない、しかも感染する得体の知れない病気として世界中をパニックに陥れた。
AIDS(後天性免疫不全症候群)は、免疫細胞がHIVウィルス(ヒト免疫不全ウィルス)に感染する事により、体内の免疫機能が低下し発症する病気だ。免疫力が弱り、健康時には抑えられていた病原菌が暴れ出して様々な病状が現れる。HIVに感染しても多くの場合すぐに症状は出ず、この時点ではまだエイズは発症していないのだが、その後、指定された感染症の症状が出るとエイズの発症となる。主な感染経路は、性的感染、血液感染、母子感染となっている。
1981年、アメリカのロサンゼルスに住む同性愛者からHIVウィルスが発見され、初めてエイズが症例として認定された。そしてその後、急速に世界中へと広まって行く。エイズ対する正しい知識がなかった当時の社会は、目に見えないものへの恐怖心から同性愛者に対する偏見が深まった。今でこそ同性愛はオープンであるが、1980年代にはまだ同性愛はそこまで現代ほど市民権を得てはいなかった。
エイズを発表し、その翌日に亡くなったフレディ・マーキュリー
クイーンのヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーはバイセクシュアルであり、最後は男性としか交際しなくなった。性行為が主な感染経路であるエイズは、ゲイコミュニティで広がり、1987年、フレディもエイズに感染した。しかし、フレディ・マーキュリーは自分に関わる多くの人々への影響を気にしてか、感染を公にはしなかった。
1991年11月23日、フレディ・マーキュリーは遂にエイズ感染を公表する。そしてその翌日の11月24日、エイズによる合併症ニューモシスチス肺炎により死去。45歳だった。
11月27日、フレディ・マーキュリーの遺体はケンザル・グリーン霊園で火葬された後、散骨されたと言われるが、その詳細については明かされていない。
ゾロアスター教徒だったフレディ・マーキュリー
ペルシャ系インド人で熱心なゾロアスター教徒であった両親の元の生まれたフレディ・マーキュリーの本名はファルーク・バルサラ。
ゾロアスター教の葬送は、ダフマと呼ばれる塔の上に遺体を乗せ、遺体を風化させる鳥葬か風葬である。両親ほどの信者ではなく、また、自分のルーツについても多くを語ろうとはしなかったフレディ・マーキュリーが、最期はゾロアスター教の教えにのっとり自然へと還って行った事は感慨深いものがある。
ライブエイドでのフレディ・マーキュリー
映画「ボヘミアン・ラプソディ」での最大の見所となっているのは1985年のライブエイドでのステージだ。私は、当時テレビの生中継を見ていた。しかし、衛星放送の不備のため中継は途切れがちで、クイーンのステージを見た記憶がない。その後、DVDとして発売された時に初めてクイーンを見た。そしてそこには、フレディ・マーキュリー以外にも、ダイアナ妃や INXSのマイケル・ハッチェンスなど、今は亡き人々の在りし日の姿が。そう言えば、日本のスタジオの司会は癌で亡くなった逸見政孝さんだった。私は、懐かしいと言うよりも、せつなくなってしまった。