仏式葬儀につきものの読経。多くの人はわけのわからぬ呪文のようなものだと思い、終わるのをただ待っているだけではないだろうか。読経には故人が成仏できるようにとの意味もあるが、参列者に対して仏教の教えを説く意味合いもある。経典には釈迦の教えが様々な形となって記されている。その教えとは「死」は最後のステージではないという「物語」(Narrative)に他ならない。現代社会ではこの物語が喪失しつつある。
死の恐怖
人間にとって最大の恐怖は死の恐怖だろう。「悪魔の頭脳」と呼ばれ無神論者を自負した天才科学者 フォン・ノイマンはガンに冒され自身の死に直面したとき、カトリックの神父との対話を望み周囲を驚かせたという。やはり合理主義者・無神論者を自負していた宗教学者・岸本英夫もガンが発覚し、死の淵に立たされて激しい苦悩に苛まれた。岸本はこれを激しい「生命欲」にさいなまれる「生命飢餓状態」と呼び「死の暗闇の前に素手で立っている」と表現した。
死を恐れる感情は人間に特有のものだ。死とは未来だからである。死は時間的存在である。それゆえ人間だけが死を意識する。動物は(おそらく)時間の概念はないと思われる。しかし個体を維持するための本能が生命の危機を避ける行動に出る。人間もそれで良かったのではないか。「その時」がまだ訪れていないのに「その時」を恐れるのはなぜなのか。死を意識し死に恐怖する理性。それは人間の原罪といえるかもしれない。
科学的世界観
浄土系仏教の葬儀では「阿弥陀経」がよく読まれる。「阿弥陀経」は「無量寿経」「観無量寿経」と並ぶ浄土系の三大経典のひとつで西方にあるという極楽浄土の美しい情景が描かれている。宝石でできた蓮池や妙なる音楽の流れる情景。それは現代人には陳腐なおとぎ話にしか見えないだろう。死の次は何もない。身体は土に還り心は無になる。霊魂も死後の世界も存在しない。科学的世界観から現代人に提出した死の次の結論は「無」であった。
「無」といえば仏教である。元々仏教は「無」「空」を説く。元々実体として存在するものは何もないという考えだ。人間も「五蘊」と呼ばれる5種類の要素、つまり5つの部品から成る集合体であり「私」という固定した「実体」は存在しないと説く。元々ないのだから生も死もない。ないものに執着するのは愚かなことである。そう考えれば悩み苦しみも本当はないということになる。非常に理知的な考えでおとぎ話の入る余地はない。現代でも仏教のこうした哲学的な面が好まれているようで、科学者と仏教者の対話などはよく行われている。
「物語」の必要性
こうした理知的な考え方は心身が健康であることに依って立っているものだ。特に若い時はそもそも死そのものが遠い未来である死後のことなど考えることはない。それでも死は確実にやってくる。自分が死の淵に立った時、ほとんどの人は「生命飢餓状態」に陥る。そのような時、科学や哲学で救われるだろうか。そのような観念的な世界に立脚できるだろうか。現代人は死の恐怖の前に素手で相対しているのである。強靭な知性や意思を持って死を克服する者もいるだろう。だがほとんどの衆生は元気な時には口にもしなかった神さま仏さまに死にたくないとすがりたくなるものだ。
理知的な哲学として深まりつつあった仏教だが、「極楽浄土」という迷える衆生を救いに導いてくれる他界観が導入されたのは必然であった。しかし極楽浄土を信じろなどといっても現代人には無理な話かもしれない。それでも我々には人智を超えた「何か」があるような、ないような、それでもやはりあるような。そんなぼんやりした感覚はないだろうか。そうした曖昧な感覚に形を与えたのが「阿弥陀経」のような宗教的な物語である。
ここでいう物語とは主観的な世界に構築された宗教的物語であっておとぎ話ではない。自分は自分の意識の外に出ることはできない。純粋客観は存在しない。世界とは自分の世界であり、死の恐怖とは自分の恐怖である。ということであれば主観世界に構築された宗教的物語は、他者が何を言おうとその人にとって真実である。宗教哲学者 清沢満之が言うように「宗教とは主観的事実」なのである。理知的な客観を捨てて経典を読んでみることは来るべき時への備えとして有効ではないか。
最後に…
死の次にもステージがある。葬儀とはそのような物語を共有する場であり、旅立った故人もそのような世界にいるのだろうかと思いを馳せる場でもあるのだ。斎場ではその日に読むお経にはどのような意味があるのか、簡単に説明した冊子を配るなどをしてもよいのではないかと思う。
参考文献
■中村元・早島鏡正・紀野一義訳注 1964「浄土三部経 (下)」岩波書店
■岸本英夫 1964「死を見つめる心」講談社
■ノーマン・クレイ 1998「フォン・ノイマンの生涯」朝日選書
■釈徹宗 2015「死では終わらない物語について書こうと思う」文藝春秋