仏教では、人が死んだときに、戒名を授かる。これはどの時点で、だれがどのような意味があってつけているのか。大人になるまで自然に受け入れてきたが、先日、参列した葬儀で亡くなられた親族のお孫さんらしき子どもが、「おじいちゃんの名前があれになったの」と大きな声でお母さんに聞いていたので、そういえばと疑問に思った。調べるといろいろな意味があることが分かった。
お坊さんには悪いが、個人的には必要なし
いろいろ調べた結果、戒名をつけることにより成仏ができるかなんて信じる人は、私も含めほとんどいないと思う。それでも、いまでも戒名をつけている人は、世間体を気にしているのではないか。宗派やお寺さんによって違いはあるのかもしれないが、葬儀にお坊さんを呼ぶとお経・戒名などがパックになっていて全部で10万円コース、30万円コースと決められているみたいである。そのため、コースを選ぶと自然についてくるものなので、わざわざ戒名だけいらないという人も少ないというのが現状だろう。しかし、個人的には60年70年人生を共にしてきた自分の名前を位牌に刻んでほしいと思うのは自分だけだろうか。家族や友人、知人が集まってくれた時にやはり、私は自分の名前がいいと思う。
儀式という形にはまらずに、葬儀の本義から在り方を考えると
前述のような現状があり、それでもいいと思っている人が大勢を占めているのも事実である。そして、私自身もそのような儀式を積極的に批判するほどのこだわりも持っていない。ただ、葬儀という儀式を通し、故人の人生に思いをはせ、残された親族とも故人同様のおつきあいをしていこうというのが本義であるように私は思う。葬儀全体の話におよんだが、そのような本義のもとで戒名を考えると、その人の人生が目に浮かぶような戒名でもいいのではないか。例えば、警察官が亡くなった時には、厳格な人生を物語るような文字を入れるとか。また、人情味があり多くの方から信頼をよせられた人には、それにあう文字を入れるのもいい。しかし、それはお坊さんが考えるというより、生前の近親者によってつけられるのが好ましいのではないか。
戒名料も含め、お坊さんは無料で葬儀に参加すべきではないのか
ここまで、戒名について私見を語ってきたが、お坊さんが結構お金を受け取ってるように感じている。そもそも聖職者である彼らは、無料で故人を悼むお経を唱えるべきだし、お布施の金額によって戒名にランクがあるのは、おかしいと思う。聖職者といっても食べていけないと続けられないし、そのためには、なにかしら価値を生むものが必要であることは容認するとします。しかし、お坊さんたちは、税制において宗教法人法で優遇されているし、戒名をつけるだけで100万を超える金額を受け取るのはおかしい。
今後の葬儀の在り方は
現在、少子高齢化の時代に入り、独居の高齢者も非常に多くなってきています。そのため、そのような人がお亡くなりになり、引き取る親族が見つからない場合には、行政が簡素な葬儀をおこない焼却し、無縁墓地に入れられる。この時には、お坊さんは、一切かかわらないのです。しかし、このような最期を遂げた方にこそ聖職者は立ち会ってほしいと念願いたします。