古いあばら家に住んでいた頃、祖母が突然、奇妙なことを言い始めた。
埋めてしまった井戸から、姿の見えない男が、息を切らしながら登って来るというのだ。それも、決まって真っ昼間の一番眠くなる時間帯に。私たちは、祖母の勘違いか、あるいはついにボケてしまったのかと焦った。しかし、日を追うごとにブレることのないその発言は次第に真実味を帯び初め、私も怖くなってきた。
祖母の様子がどんどんおかしくなっていった
とにかく夜中にトイレに行くのが憚られた。何しろ年季の入ったかなりのボロ屋敷だ。トイレ(いや厠と言った方が、よりリアリティーがあるか)に行くには、障子を開けて一旦外に出ないといけない。真っ暗な廊下を薄ぼんやりとした月明かりを頼りに歩いて行くと、突き当たりに汲取り式の厠が、ひっそりと待っている。夜中に絶対に厠に行かないように、寝る前の飲食は控えているのに、そういう時に限って行きたくなるのは、悲しい人間の性。そして厠に行く途中で、庭の片隅に据えられた例の井戸が、どうしても目に入ってしまうのだ。
姿の見えない不気味な男は、苦しそうにここから登って出てきては、祖母の寝ている傍らまでやってくる。祖母が、ぼんやりとしながら、「ひであき(息子の名)か?」と聞いてみるが、返事がない。とても苦しそうに荒い息づかいをしたまま、ただ何も言わずじっと祖母を見下ろしている。その話はいつも同じで、とても作り話とは思えなかった。このままでは、本当に祖母はおかしくなってしまうのではないかと案じられた。
お祓いを頼むことにした
近くに祖母の妹がいて、相談すると知り合いの神社にお祓いを頼んでくれた。私たちには初めてのことで手順などさっぱり分からなかったが、この叔母が随分尽力してくれて助かった。当日もテキパキと祭壇などの準備に奔走し、私たちは、ただそれを物珍しく眺めていただけだった。いい歳をしてまだまだ食いしん坊の私は、祭壇に供えられてある白いお団子が気になって仕方なかった。
不思議なことに肝心要のこのお祓いについては、神主さんがどんな方で、どんな儀式をしたのか、さっぱり覚えていないのだが、終わってから叔母が、このようにはなしていた。
「このお供え物は全部、今から川に流しに行くねん。流したあとは、絶対振り返ったらあかんねんで」
「振り返ったらどうなるん」
「ついてくるねん。霊魂は寂しがり屋さんやからなあ」
なんと魅惑に満ちた恐ろしい発言か。私が好奇心に負けて、その公約を守れなかったらどうしようかと不安がっていると…。
「大丈夫。それはアタシがするから。心配せんでもええよ」
少し残念に思いながらも、ほっとした。
仏壇を二つお祭りしていたことが原因だった模様
さて、その原因なのだが。仏さんを二つお祀りしていることにあったらしい。
訳あって、祖母は長男一家とは暮らさず、私の父である次男の家族と一緒に暮らしていた。そのいわゆる本家である長男の家に、確かに仏さんが二つお祀りしてあった。長男の嫁が嫁入り道具として実家から仏壇を持ってきて、もともとあった仏壇の横に備え付けたのだそうだ。私には経緯などは分からないが、神主曰く、仏様を二つお祀りすると喧嘩なさるので、よくありません、とのことだった。
長男にそれを言っても聞き入れてもらえず、やむなく、神主の代替え案として提示してくれたものを採用することにした。それは、毎日朝晩、我が家で、本家の仏さんの分として、水とご飯をお供えするというものだった。改めて仏壇を置く必要はなく、本家の方角に向かって置きやすいところに置けばいいとのことだったので、私たちが集う一番目立つところにあった、水屋の上に置くことにした。
その後、祖母の恐ろしい日々は消え、ゆっくと昼寝が出来るようになったのである。