「私の死後は散骨にしてね」ーー誰かのお葬式や、テレビでお墓の話題が出るたびに、夫に伝える私。
別に夫が嫌いで「同じ墓に入りたくない」という訳ではなく、なんとなく「お墓」という暗い、狭い場所に死後も入れられるのが嫌だからです。死後くらいは、のんびりゆったりと広い海に抱かれ、七つの海を渡りたい。そんなことを夢見ているからです。そんな私を、夫は呆れ顔で見て、「はいはい」と心無い返事をしています。そんな夫を見て溜息をつく私。散骨はそんなに突飛なことなのでしょうか?
増えている散骨希望者
実は、散骨希望者は少子高齢化、夫や夫家族との不和、金銭面での問題など、様々な理由で増えているそうです。散骨の良さは、お墓のように墓石やお墓の手当をする必要が無く、しかも永代供養料の支払い義務やお墓のメンテナンスをする必要がないこと。そんなことも魅力の1つになっているようです。
最近では、お寺や納骨堂も檀家離れの為に破たんすることもあり、立派なお墓を立て、永代供養料を払っていても、預けているお骨を引き取らざるを得なくなることがあるようです。
また、墓守の高齢化が進み、足腰が弱ってきた墓守が離れた場所のお墓参りに行くことが困難になった為、今までのお墓を「墓じまい」し、新たに自宅近くの納骨堂に安置する例も増えてきたそうです。
そもそもお墓は必要ですか?
人々が死者の遺体を、お墓に埋めるようになったのはいつからなのでしょう?自然界を見ても、動物が泣きながら家族や仲間を埋める光景は見たことがありません。人は死んだら、土に還ります。それは自然の摂理です。しかも、人間界でも鳥葬や風葬など、お墓にとらわれない葬儀の形も存在します。
お墓は「故人を想い、偲ぶ場所」とされています。確かにお盆や命日など、亡くなった方を思い起こさせる日には、お墓詣りをして、懐かしい故人と語り合いたくなります。
しかし、それが「お墓」である必要はなく、山に散骨した場合は山、海に散骨した場合は海に語り掛け、故人を偲ぶことも出来るはず。むしろ「お墓」という小さな空間ではなく、海や山などの雄大な景色の中で故人を偲べるのは、残された人々にも、故人が居ない喪失感を包み込み、清々しい気持ちにさせてくれるのではないでしょうか?
魂は千の風になって
「千の風になって」という歌が以前流行りました。優しく心地よい歌声は、故人がお墓ではなく、大切な人々を見守るため、千の風になって、大切な人のそばにいる、と語り掛けます。
私も万が一、私の希望とは裏腹にお墓へ葬られたとしても、きっとお墓にはいません。千の風になってまで、愛する人を見守り続けるかは分かりませんし、さっさと転生して、違う人生を歩み始めるかもしれませんが、お墓にいないことは確実です。
どんな葬られ方をしても、結局人は自然に還ります。それならば、自然に還りやすい形で葬られることも、自然の摂理に叶っているような気がしますが、如何でしょう。