今年3月、私の短歌の師匠が80歳で亡くなった。生前、『葬送の自由をすすめる会』に入会し、死後は海洋散骨を望んでおられた師であったが、その願いが適ってか、9月1日に平塚港を出た船の上の遺灰は、ご主人と会の仲間5名に見守られ、晴天の神奈川沖に鎮魂の鐘の音をあげて弔われたそうである。
手向けられた色とりどりの花びらが海面を覆い、彼らは師の笑顔を海の水面に見たようだと最終号に載せている。
本人が強く望んで、無事散骨された師匠
20年以上も前になるが、私がこの短歌会に入会したのは、師の歌の中に如実に表れている死生観に強く魅かれるものがあったからだ。生きているという事は、生まれる前の長い時間と死後の長い時間のはざまにある一瞬の生を燃焼することであり、その儚さを歌に詠むことが大切だ、現生の地位や財産、立派なお墓など何の意味もない。そう彼女は語っていた。
歌詠みであれば、誰もが西行の時代、いやそれよりも遥か昔から持っていたはずの死生観や無常観を57577のリズムにして歌いたいと思う。短歌の腕を磨くことは、同時に死に際して無闇に狼狽しない精神を養うことでもある。師は『短歌を手放さないで』と死の直前まで弟子たちに檄を飛ばしていた。形式を嫌い、自由を求めていたのも首肯できる。もちろん子どものいなかった人だから墓は要らないという気持ちもあったのだろう。しかしそれ以上に、師がお墓という閉じ込められた空間を嫌い、広い海や山に骨を埋めたいと考えたのがまさに短歌的であると思うのだ。師は行動をもって短歌を詠まれた。
散骨を希望したが、家族の反対にあい叶わなかった姉
その3か月後の6月、今度は私の姉が癌に冒されて亡くなった。7年前に築地の国立がんセンターで手術をしていた癌が再発したのだった。「5年生存率もクリアしたのに」と弱音を吐く義兄に、「こんな弱虫だとは思わなかったわ」と泣きながらこぼしていたのを昨日のことのように覚えている。姉は、死は自然なもの、遅かれ早かれ迎えるものなのだからと、いわば諦念の域に達していた。63歳で寿命というのはいかにも短い。しかし、私たちの母は癌で52歳で亡くなっている。母は「あと10年生きたかったねえ」と言っていた。それを思えば母より11年も長生きできた自分は幸せだったと病院のベッドで私に言った。
姉も当初は散骨を希望していた。いろいろな資料をあさっていたらしい。しかし思った以上に大変な手続きがあることや、家族の猛反対にあってそれを断念した。姉は人に面倒を掛けるのをとても嫌っていたようだ。お墓に来てもらうよりも、樹木葬や海上散骨された方が後々面倒がなかろうと考えていたのである。しかし、それは本人のわがままというものだろう。なぜなら死者を祀る側にも『お墓参りをしたい』『話を聞いてもらいたい』という自由と権利があるはずなのだ。墓の前で両手を合わせて涙を流してみたい、そういう相手(故人)だからこそお墓は要るのである。下の2首は師の立場にたって詠んだもの。
・しがらみも解き放たれてあの世から快気祝いをみんなに撒くわ
・恋人の立ちブランコの背に青葉 いつかは帰る故郷の道(『故郷』は生まれる前と死後の世界)