筆者は最近、NPO法人・葬送の自由をすすめる会の初代会長である安田睦彦氏の著書『墓は心の中に 日本初の「自然葬」と市民運動』に目を通した。
その中には、葬送の自由をすすめる会が何らかの形で関与したケースを中心とする、いわゆる自然葬の多数の実例が紹介されている。そうした様々な自然葬によって、肉体を自然に還した故人には、ある共通の傾向があることに、筆者は気付いた。
自然葬を希望される方々の3つの特徴
(1)多くの場合、家族や親類、友人などとの間に、普段から「死」や「葬儀」などに関してタブー視を余りせず、ある程度オープンに語り合う空気があった。
(2)そのため、いざ本人が亡くなった際に、家族などがせっぱつまり、駆け込み的に自然葬を相談しに来たケースは、余りない。
(3)突然の事故や事件、災害などでの死を遂げたとはっきり明言された故人の例は、めったにない。但し中には、ある程度若い故人や子どもの故人、死刑囚として刑を執行された故人もいるので、一概にはいえない。
筆者はこうした傾向から、現在の日本では、一定の条件が揃った時に、自然葬が比較的スムーズに行われるふしがあるように思った。
オープンな空気と壮絶な死を遂げていないこと
まず、故人と周囲の人々との間に、「死」や「葬儀」を普段から余りタブー視せず、ある程度オープンにする空気があったことである。こうした「死」に関する様々なことをタブー視していたら、自然葬をする場合もしない場合も、いざ遺族となった時に余裕を失ってしまうことは明らかである。
また、火葬前の故人の遺体が余り損傷していないことも、自然葬がスムーズに行われる条件になることが多い。更に言うなら、故人の死因が、事故や事件・災害などのように、壮絶なものではないことも、その条件に含まれるといえるだろう。
最後に…
近現代の日本では、前近代には余り強くなかった故人の遺体や遺骨へのこだわりが強化された。特に、こうした悲惨な死によって傷付いた遺体のケースこそ、遺族はより強く遺体・遺骨にこだわる傾向がある気がする。このような場合、犠牲になった故人が普段から希望しており、周囲の人々も納得していた場合を除いて、故人の遺骨を散骨するなど、とんでもないという考え方が強いのではないだろうか。
故人本人が、「自分で決めたやり方で、自分の肉体を自然に還す」ことを決意する時間があることも、無視できない。だからこそ、自然葬にされる故人の死因が、老衰や比較的穏やかな病死であるケースが多いのであろう。これは、先述した「突然、悲惨な死を遂げた場合には、余り自然葬が行われない」ことのもう一つの理由でもある。
例外的に悲惨な死である「死刑囚としての刑死」の場合も、死刑執行までに自分の考えを整理していたからこそ、円滑な自然葬が実行できたわけである。
参考文献:墓は心の中に 日本初の「自然葬」と市民運動、 0葬 あっさり死ぬ