以前、20世紀を迎える前後に複数回日本に滞在したイギリス人ゴードン・スミスが、当時の東京と大阪の火葬について報告した内容を紹介した。
その中で彼は、東京の方が大阪に比べ火葬される人が多く、また火葬される故人の経済状況も様々であったことに言及している。
ポイントは「上京した人が増加」と「お墓へのこだわりが強化」
この理由について、ゴードン・スミスの考察がまとめられた記録は、残念ながら現時点では見つかっていない。
しかし筆者が当時の葬儀に関する本などを読んだところ、この当時の東京の火葬率が大阪よりも高かったのには、人口差以外にも理由があったと考える。
その理由は幾つかあるが、大きな理由としては、「地方から上京して働く人々の増加」と「故人の遺体・遺骨や家の墓地へのこだわりの強化」が同時進行したことが挙げられる。
遺骨を地元に還すという必要性が生じたため火葬率が高くなった
「日本人は故人の遺体や遺骨へのこだわりが強い」とよく指摘される。
しかしこの傾向は、過去の時代から一貫して続いている傾向ではない。遺体や遺骨へのこだわりは、古代や中世には余り強くなく、中世末期から近世に入って少しずつ強化され、近現代、特に戦中戦後に至って極めて強くなったのである。
これと歩調を合わせるかのように、「家の墓」に埋葬されることへのこだわりも強化されていった。
江戸時代には、出身地を離れて生活している人がその地で亡くなったとしても、現地の寺院などが運営する共同墓地に埋葬されることが普通であり、それは決して「悲惨なこと」ではなかった。
しかし明治期に入ると、故人の遺体や遺骨、「家の墓」に入ることへのこだわりが強化され、故人が「家の墓」に入らないことは「悲惨なこと」となっていった。
その結果、何が何でも故人の故郷の墓に遺体を埋葬したいという需要が発生した。そのことによって、腐乱の恐れがなく、且つかさばらない「遺骨」として故郷に戻すのがよいのではないかという発想が生まれ、火葬志向が高くなったのではなかろうか。
鉄道の発達により、上京した人がとにかく増えたこともポイント
また、江戸時代にも地方の出身者が江戸に出て働くことはあった。しかし当時は徒歩による移動のため、余り遠くに行くことは一般的ではなく、地方の農山村漁村の人々は近隣の城下町などに出て働くケースが多かった。
つまり江戸時代に江戸で働く地方出身者の大多数は、江戸近郊の人々だったのである。
しかし明治に入り鉄道が発達すると、江戸時代では考えられないほどの遠い地方から移ってくる人々が多く出てきた。それにより、東京で亡くなる遠くの地方出身者が桁違いに増えた。
遺体や遺骨、そして「家の墓」へのこだわりが強化された時代と、東京で亡くなる遠くの地方出身者の大幅な増加が相まって、明治期の東京は同時期の大阪よりも火葬率が高かったのではなかろうか。