19世紀末〜20世紀初頭に旅行で複数回来日したイギリス人、リチャード・ゴードン・スミスは日本滞在中に膨大な記録を残した。
その記録の中に、当時の東京と大阪の火葬場についての興味深い記録がある。余り記録が残っていない、当時の火葬についての詳しい記録は貴重である。実際ゴードン・スミス本人も、記録の中で自分は火葬に関心があるとはっきり言っている。
東京の火葬は?
さて、彼の記録によると、東京・大阪共に、当時の火葬ではマツの木を薪として使っていたという。マツは樹脂を多く含むため、燃料として優れているからであろう。
東京では、一人の遺体を焼くのに約3時間かかったという。
「金持ちは全身を伸ばして焼かれるが、貧しい者は二つ折りにされてかつがれ、籠の中へ押し込まれてそのまま焼場に運ばれて四角の箱の中に入れられる」と記録が残されており、火葬される死者の経済状況は全く様々であったことがわかる。
火葬は夜に行われ、毎晩40〜50体が火葬された。
当時の法律では、遺体が焼け切らなくても、日没までは再点火が禁じられていた。
大阪の火葬は?
一方大阪では、火葬用のカマドは蓋をせず「すべては原始的に」行われたとあるから、野焼きに近い火葬法だったようである。
そして「遺体は膝を折った形で小さな樽のなかに詰めこまれるのが通例」とある。しかし、火葬される死者の経済状況については、全く言及されていない。そのため、全身を伸ばさず火葬される死者が貧しいかどうかは、この記録を読む限りでは不明である。
ただ、大阪では一晩に火葬される遺体は8〜16体であり、東京に比べると大幅に少ない。この人数の違いは、筆者にとっても大変興味深く、更に火葬した遺灰は余り持ち帰らなかったという。
なお、現代でも近畿地方を中心とする西日本では、火葬された遺骨を全部は骨壺に納めないことが多い。その風習は、この記録から推すと、遅くとも20世紀初頭には始まっていたことがわかる。