現代で言うところの「和型墓石」の形状やいわゆる「先祖代々の墓」は、古くからあるように言われているが案外新しくできたものであることを先日指摘した。
今回は「戦没兵士の墓」について触れてみたい。
戦没兵士専用のお墓が建てられた
明治時代以降、終戦までに「戦争」によって亡くなった兵士は、地域の慣習や信仰する宗教宗派によって若干の違いがあるものの「先祖代々の墓」に入ることはなかった。
では、どこに埋葬されているのか。それは、実家近くのある程度大きな寺院などに設けられた「戦没兵士の墓」に葬られることが多かった。
勿論、実家の墓に葬られる場合もある。しかし、その場合「先祖代々の墓」などの墓碑銘のある墓ではなく、その人専用の墓を建て、そこに独立した個人として埋葬されることが一般的であった。
専用のお墓となったのは「特殊で悲劇的な死を遂げたから」というのが有力な説
なぜそのような葬られ方なのかについては様々な理由や説があるが、大きな理由の一つとしては「極めて特殊な形の悲劇的な死を遂げた同じような属性を持つ死者」であるからだ、ということが言えるであろう。
このタイプのいわゆる戦没兵士ではない死者群が戦没兵士のような方式で葬られている例として、東京都港区にある賢崇寺に埋葬された二・二六事件で処刑・自決した若手将校や明治末にボート事故で亡くなった逗子開成中学校の生徒、もっと古い例では同じく東京都港区にある泉岳寺に埋葬された江戸時代のいわゆる忠臣蔵の四十七士などが挙げられる。
では戦没兵士以外で、災害や事故・事件などによる「特殊な悲劇的な死を遂げた共通の属性を持つ死者」はどうだったかというと、戦没兵士と同じような葬られ方はしていないようだ。
ちなみに、特殊で悲劇的な死を遂げたということが関係するかどうかは定かではないが、戦没兵士の墓の見た目のデザインとしては、兵士の石像が彫られているタイプのものがしばしばある。これには故人の写真や、更にその写真を基にした肖像画などから彼の面影を写し取ったものもあるという報告もあり、筆者には現代のデザイン墓石のルーツの一つである可能性もあるように思われる。