「簡単・便利・安い」。不謹慎とは思いつつ、家族葬を経験した者としての感想は、まさにこれである。
心積りがあったとしても、対応に負われることになる葬儀
叔母は足を悪くしたのと同時に老人ホームに入居し、そこで八年を過ごして先日亡くなった。そろそろ90歳という年齢で、死亡診断書には「老衰」の文字。息子夫婦と孫、近くに住む姪である私が呼ばれ、目の前で呼吸器が外されるのを眺めた。静かで穏やかな亡くなり方である。
しかし、経験した者には判るであろうが、人が亡くなると、その瞬間から周りの人間は猛烈に忙しくなる。葬儀社の決定と共に始まる葬儀の段取り打ち合わせ、近親者への連絡、今後に係る金銭の準備。叔母の場合はある程度の「心積もり」はあったと言えるが、それでもいくつか問題はあり、躓いた。まずは近親者への連絡である。
家族会議では、それぞれの立場や思い入れがあり、中々話が前に進まない
老人ホームに入居するため、自宅を売却しこの地へ移り住んだ叔母。親戚や知人を葬儀に呼ぶには、少し距離が遠く迷惑であるから、密葬にし、後で連絡するという形で済ませられないかというのが息子の意見。だが本音のところでは、老いた母との同居を拒んだ挙句のホームへの入居について、親戚に責められることを恐れての発言であった。
一方、義母のお葬式をそのような非常識な形で終わらせては、それこそ親戚に顔が立たないと慌てて反論する息子の嫁は、ホームに入居させた負い目を、なんとか「立派なお葬式」という形で覆そうと目論んでいたところである。
どちらも自分の立場を守ろうと、話しは先へ進まないところへ、ホームの方からいくつかの葬儀社のパンフレットを手渡され、その中に「家族葬」という言葉を見つけた。
故人を第一に考えることができる家族葬は、それ以外にもメリットが沢山!
家族葬が選ばれるようになった背景には、宗教に対する考え方の変化、葬儀に対する価値観の変化などが上げられるが、それに加え、社交辞令的な弔問客を拒否することで、故人の供養を第一に考えてお別れできるという考え方が主流にある。
更に、少ない年金が老後の支えであった叔母の葬儀費用についても、ある程度安く抑えられることもメリットとなり、息子は即決。しかし最後まで納得できない嫁は、叔母の弟である私の父への連絡を私に頼んできた。電話で話す父は叔母の死を悲しんではいるものの、自らも体調が悪く、葬儀に参列する自信がないとの返事。実際、父だけでなく親戚はみな老いており、遠路かけつけるのは酷であると、私も家族葬を薦め、ようやく嫁も受け入れた。
若い私たちにとって、慣れない通夜や葬儀の出席というのは、少しややこしいものであるが、老人たちにとっても本音は同じであろう。参列することも勿論大事ではあるが、それ以上に見送る気持ちを持つことが重要ではないだろうか。通夜や葬儀はスケジュール帳に書き込むことのできない予定外の出来事であり、無理を押して出席されては、どこかに不満が残るもの。そちらの方が故人としては浮かばれないだろう。
参列者がいないことで、家族として一緒にいられる最後の時間が増える「家族葬」
叔母のお葬式を「家族葬」として、私たち四人だけで行うと決めてから先はスムーズに進んだ。親戚知人への連絡不要であることが、家族葬の最大のメリットかもしれない。
極々身内だけで行った葬儀は、言葉は間違っているかもしれないが、リラックスした、非常に楽しいものとなった。葬儀社の方も、多少のルール無視には寛容な空気を作ってくれたので、私たちは棺の傍に椅子を運び、叔母の思い出話に興じた。息子夫婦にとっては、晩年を老人ホームで過ごさせてしまった後悔を取り戻すような時間となった。
忙しさも煩わしさも感じることなく葬儀は進み、四十九日の法要後に、周囲には「本人の希望で」家族葬を行ったことを伝えることになった。実情はともかく、身内だけで行ったことで可能になった嘘ではあるが、こんなところも家族葬の便利さである。