葬送というものは、とかく古い慣習に縛られていて、なかなか変わらないものだと世間で思われがちなものだが、実際には戦後だけで二回の大きな変化を経験している。
戦後、葬儀に訪れた二度の変化とは
一回目は高度経済成長期に葬儀が異様なまでに大きく派手になったこと、二回目は(1990年代から)故人の意志や遺された家族の気持ちになって配慮した「故人との別れを悼むこと」を目的にするしめやかな葬儀が主流になってきたことだ。
二回目の「個人の意志を尊重した葬儀」への変化は、今まさに進行中で、日本社会のあちらこちらで様々な模索が続けられている。
大規模な葬儀を執り行う費用がないときや葬儀を公にしたくないときに密葬扱いされていたものが、「家族葬」として、なにはばかるこのとない葬儀の形として認識されるようになり、「葬儀に関する個人の自由」が徐々に日本人のこころの中にある「葬儀に関するよくわからない慣習」を拭い去っていく変化の時代にわれわれは生きている。
華美な葬儀の衰退とともに自由葬の流行が訪れた
個人の意志を尊重した葬儀として家族葬が提唱されるようになったのと「自由葬」を薦める意見がマスメディアに登場するようになったのは、ほぼ同じぐらいのことだった。自由葬というのは、特定の宗教宗派の儀礼に準拠しない、完全に「故人の要望」だけに基づいた方式で葬送を行うことである。
現代の日本では、熱心になんらかの宗教に帰依している人は少数派になっている。旧来の、主に日本式仏教の慣習に立脚した葬儀に魅力や必然性を感じなくなっている層のほうが多い現状がある。そしてそのタイミングで発案されたのが自由葬なのだ。
仏式・神式・キリスト教式、いずれにしてもなんらかの宗教の権威者に葬儀の主導を依頼すれば、宗派の作法に則った定式ある葬送が行われることになるが、宗教そのものに対する関心が薄れている現代日本人には、定式などにこだわらない、自由な葬儀セレモニーを演出するのが好まれるようになっていても不思議ではないだろう。
一方で宗教色のある葬儀を望む声も根強い
ところが、現実は全くかけ離れた段階で留まっている。家族葬や自然葬は、もう浸透・定着化の流れの中にあるのに対し、宗教色のある葬儀を望む高齢者の割合は多い。
自由葬が、実際に死期に直面している高齢者に好かれていない背景には、日本人の日本人としてもっとも基本的な心情である「自分はどこかに帰属している」という安心感を損なってしまうという危惧があるのかもしれない。
どちらが良いか悪いかではなく、個人の意志を尊重することが大事
戦後の欧米文化の流入を受けて、日本人は「個人の意志」を尊重する風潮を受け入れる気質を育んできた。自由葬という形式はそのもっとも端的な例のひとつだろう。しかし、故人が自由意志を貫いた葬儀を希望するか、生まれ育った風土の「しきたり」に従って現世を旅立っていくか。そのどちらかを選ぶのも、これまた「個人の意志」の反映の一種だ。
日本での葬送の形がどんどん多様化・個性化していく傾向は、もう止められないところまできている。われわれ日本人が徐々に「因習のしがらみ」から脱していきつつある動きの、とりわけ目立つ部分として、自由葬が人々の目に映っていることも想像に難くない。
良い葬儀とは
これからの時代「良い葬儀」の形は、急激にその形を変えていくはずだ。そもそも葬儀とは、なんのためだれのために行われるものなのか。この部分を根幹から考え直すことは、戦後二回目の葬送儀礼の変遷の真っ最中にある現代日本人の急務であり義務であることは間違いない。つまり華美な葬儀や宗教色のある葬儀がダメなわけではないのだ。何が良いかはその人が決めるのだ。
ともあれ、わたしはわたしの年老いた(仏教と僧侶が大嫌いな)父が「読経だけはしてもらってくれないか」などと言い出したとき、これを無視して僧侶を呼ぶのを拒否する自信はない。