西武池袋線・飯能(はんのう)駅から15分ほど歩いたところに、川遊びやバーベキューで多くの人が賑わう「飯能河原」と呼ばれる、入間川(いるまがわ)沿いの景勝地がある。今年の4月21日から5月8日には、一部の利用者によるゴミ放置や騒音問題などを改善するため、河原の一部区域を事前予約制で有料化するという実証実験が行われた。その際、有料エリア利用者に対して、Webで利用後のアンケート調査を行ったところ、6割以上が「非常に満足」または「満足」だったという。その飯能河原の片隅に、川の流れと、そこで遊ぶ人々を見守るかのように、小さなお堂に祀られた水天宮(すいてんぐう)がある。
水天宮の総本宮は福岡県久留米市の水天宮
「水天宮」といえば、東京・日本橋蛎殻町(かきがらちょう)の水天宮が思い浮かぶ。安産にご利益があるとして、とても有名だ。しかし水天宮は「江戸っ子」独自の信仰の場ではなく、福岡県久留米市の大河・筑後川(ちくごがわ)東岸に鎮座する水天宮が全国総本宮なのだ。
1185(寿永4)年、源平合戦のクライマックスである壇ノ浦の合戦で平家方が敗れたのち、安徳天皇(1178〜1185)の母・高倉平中宮(たかくらたいらのちゅうぐう)こと、後の建礼門院(けんれいもんいん、1155〜1214)と、その母・平時子(たいらのときこ)こと、後の二位の尼(にいのあま、1126〜1185)に仕えていた按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ、生没年不明)が、筑後川のほとりの鷺野ヶ原(さぎのがはら)に逃れてきて、1190(建久元)年頃、戦で亡くなった人々を供養するために「水天宮」を祀ったのが始まりとされる。その後伊勢は尼となり、千代と名前を改め、近在の村人たちに請われるまま、加持祈祷などを行なっていた。「霊験あらたか」と評判になった千代は「尼御前」と称えられ、神社名も「尼御前社」「尼御前大明神」「尼御前宮」などとも呼ばれていたという。時を経て、戦乱を逃れるため、神社はあちこちに遷座したが、1650(慶安3)年、久留米藩第2代藩主・有馬忠頼(ただより、1603〜1655)に社地と社殿が寄進され、今日に至っている。
東京の日本橋の水天宮
そして東京・日本橋の水天宮だが、江戸後期の1818(文政元)年に、水天宮を深く崇敬していた10代藩主・頼徳(よりのり、1797〜1844)が、芝赤羽橋(現・東京都港区三田)の藩邸内に遥拝所を設けたことがはじまりだ。とはいえそれは「うちうち」のものにとどまらず、近在の人々までもが水天宮への信心から、塀越しにお賽銭を投げることが多々あったため、有馬家は毎月5日だけ屋敷の門を開き、参拝を許していた。それから有馬邸の数回の移転の後、1872(明治5)年に、現在地に移ったものである。水天宮への人々の信心は大いに広まり、1885(明治18)年には、「水天宮利生深川(すいてんぐうめぐみのふかがわ)」と題する歌舞伎がつくられるほどだった。
水天宮の祭神
このような水天宮の祭神は、『古事記』(712年)に描かれた、天地開闢(てんちかいびゃく)の際、最初に現れた神・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、そして先に登場した安徳天皇、高倉平中宮、二位の尼の四神である。しかし「水天宮」そのものは、平家一門関連に限ったものではなく、古来より「暴れ川」で、一夜で川の流れが変わることが多々あったため、「一夜川(いちやがわ)」とも呼ばれていた筑後川の水難を除いたとされる水の神が祀られていたものがはじまりだと言われている。そして、久留米の水天宮に関し、最も古い記録とされる『寛文十年久留米藩社方開基』(1670年)によると、当時の祭神は「尼御前大明神」を中心とし、千年川(ちとせがわ、筑後川の旧名)の水神で、その左方に川の氾濫の原因となる荒ぶる御霊である「荒五郎(あらごろう)大明神」、右方に安徳天皇の和魂(にきたま、柔和な御霊)である「安方(やすほう)大明神」を伴っていた。更にこの「尼御前大明神」は、按察使局伊勢ではなく、二位の尼のことを差していた。しかも『筑後地鑑』(1681年)によると、筑後川の支流・巨瀬川(こせがわ)のそばに鎮座する庄前(しょうのまえ)神社に祀られた水神こと、あの、栄耀栄華を誇った平清盛(1118〜1181)と二位の尼は夫婦であるため、二神が筑後川で逢う時は必ず、川が氾濫してしまうと信じられていたという。
飯能の水天宮
ところで、今回取り上げる飯能の水天宮だが、東京・日本橋の水天宮を勧請したものだという。社前の鳥居には「昭和9(1934)年戌年戌日建立」と彫られているが、郷土史家の新井保氏が所有していた「大正4年(1915)頃の飯能町市街地略図」に、この水天宮の記載があることから、勧請の時期は恐らく、有馬頼徳が芝の上屋敷(藩主とその家族が住まう)に水天宮を勧請した1818年以降、そして一般の人々に「なさけありまの水天宮」としゃれ言葉が広まるほど、崇敬の対象となった後だと考えられる。ちなみに、江戸における水天宮信仰は当初、「安産」というよりも、有馬家の下屋敷(別邸)があった高輪に近い品川沖の、有馬家に雇われていた荷役人夫(にやくにんぷ)や船頭たちの間に「水難除け」にご利益があるとして始められ、それから、一般の町人たちの間に広まっていったものだったという。
その当時の飯能一帯だが、もともと水田よりも畑が多かったため、米ではなく貨幣で年貢を納める必要があったことから、地元の産物を換金するための市が古くから立てられていた。また、正徳・享保期(1711~1736年)にはすでに、材木を切り出して入間川をいかだ流しで江戸まで運ぶ材木商人も活躍していた。その中でも名主の町田家は、江戸後期(1750~1850年)に、江戸に出て材木問屋を開くほどの勢いだったという。そしてその時期と前後する形で、入間川上中流域の谷口にある飯能に縄や筵(むしろ)を扱う市が立ち、更に山の産物である炭や石灰が集まったり、生糸や織物の市場としても栄えたりもしていた。こうした産物は地元の商人を通して、江戸を中心とした各地へと送られていったという。そうした興隆を極めた飯能という「場所」だったからこそ、当初は水運で産物を扱う人々の安全を守る。そして洪水や川の氾濫を鎮めていただくために、江戸で「話題」の「水天宮」が、「ここ」に勧請されたのだろう。
飯能では幕末に飯能戦争が行われた
また、飯能といえば、実は幕末期に「飯能戦争」があった「場所」でもある。
飯能戦争とは、いわゆる戊辰(ぼしん)戦争、すなわち慶応4(1868)年1月3日に旧江戸幕府方と明治新政府方との間で起こった、京都の鳥羽・伏見の戦いから、翌年5月の蝦夷(えぞ、現・北海道)の箱館(はこだて)戦争に至る大規模な国内戦において、飯能を舞台にしたものだ。慶応4(1868)年5月23日(新暦の7月12日)未明に始まり、その日の午前中で終結した。ことの起こりは、江戸城明け渡しを不満に思う幕臣たちが、武蔵国血洗島(ちあらいじま、現・埼玉県深谷市)出身で、一橋家・徳川慶喜(1837〜1913)の家臣、かつ明治・大正期の大実業家・渋沢栄一(1840〜1931)のいとこでもあった渋沢成一郎(1838〜1912)を頭取とする彰義(しょうぎ)隊を結成し、官軍(明治新政府方)との徹底抗戦を主張して上野の山に立てこもっていた。しかし、戦闘のあり方について意見の相違が生じたことから袂を分かち、改めて成一郎・尾高惇忠(おだかあつただ、1830〜1901)らによって結成された振武(しんぶ)軍は、多摩郡田無村(現・西東京市)に集結し、様子を窺ったり、軍資金調達に奔走したりしていた。そんな折、上野戦争の敗北を知った振武軍一行は、先の彰義隊の敗残兵や農民兵なども仲間に加えつつ、飯能に向かった。
一方、5月15日の上野戦争を終結させた官軍側は、残党たちの壊滅のため、飯能方面に進軍することとなる。戦いは振武軍の総勢約500人が、官軍側である、地元の川越藩(現・埼玉県川越市)、忍(おし)藩(現・埼玉県行田市)、岩槻藩(現・埼玉県さいたま市岩槻区)に加え、備前国岡山藩(現・岡山県)、筑前国福岡藩(現・福岡県福岡市)、筑後国久留米藩(現・福岡県久留米市)、肥前国大村藩(現・長崎県大村市)、日向国佐土原(さどわら)藩(現・宮崎県宮崎市)などの藩兵、総勢約3000人と戦ったものだ。
飯能戦争とはどんな戦争だったのか
ここで舞台が何故「飯能」だったのかというと、先に述べたように、市(いち)が立ち、栄えていた飯能近辺の17ヶ村は、頭取の成一郎が仕えた一橋家の所領だったため、領民から兵糧の補給が見込めること。それに加えて、飯能から秩父の山岳地帯はもちろんのこと、場合によっては山を越えて甲州(現・山梨県)や信州(現・長野県)に敗走することができる「地の利」の良さがあったからだと言われている。
たった半日の戦いの結果だが、振武軍は小銃などで戦ったものの、多勢であったことに加え、当時最新鋭の大砲などの火器を多用したことから、官軍側が圧倒的勝利を収めた。この戦いで、振武軍の本陣となった能仁寺(のうにんじ)に加え、軍が駐屯していた智観寺(ちかんじ)・広渡寺(こうどじ)・観音寺(かんのんじ)の4寺が焼けた他、飯能村・久下分村・真能寺村・中山村の4村で200軒が焼け落ちてしまったという。また、犠牲者数だが、官軍側の藩兵を参謀として指揮した、大村藩の渡辺清左衞門(後の渡辺清、1835〜1904)によって、飯能戦争鎮静後に提出された、東征大総督(明治政府が、旧幕府軍を制圧するために設けた、臨時の軍司令官)宛の「届書(とどけがき)」では、「此日討取処之賊骸山林原野に横(よこたわ)り其数不分明、生捕共凡五六十人深浅手員数不知」(この日討ち取った敵方の死骸は山林原野に横たわり、その数はわからないが、捕縛者は5~60人いた。深手を負った者、浅い傷だった者の数は数知れず(無数にいた))と記されていた。しかし明治31(1898)年2月、渡辺が「史談会」の取材の際、自身が当時の戦いで負ったという顔の傷を示しながら、「死骸を埋めた跡を見ると大抵六七人の死亡のやうです、其内(そのうち)銃手(じゅうしゅ、射撃手)か(が)三四人頭分(かしらぶん、首領)か(が)二三人と云ふ位のことで、戦争と云ふ程でなく百姓一揆を追散らす位のことであつた」、すなわち、死者は6〜7人で、そのうち、射撃手が3〜4人、首領が2〜3人程度。「戦争」というほどではなく、「百姓一揆」を追い散らす程度のものだったと語っていた。30年の時を経て、犠牲者数が10分の1に減っている理由は不明だが、恐らく渡辺は、「大したことはなかった」と強調したかったのだろう。しかし例えば、敗走中に広島藩の藩兵に見つかったことから、わずか22歳で自害してしまった悲劇の人、尾高惇忠の弟で渋沢栄一の養子だった渋沢平九郎(へいくろう、1847〜1868)の他、振武軍の3人、官軍側か振武軍側かはっきりしない武士と思しき人物1人、地元の民間人は5人だったというものや、官軍側に170人もの怪我人・即死者があったという話も地域に伝わっていることから、振武軍、官軍側、共に犠牲者数はもっと多かったと考えられる。
飯能戦争時、水天宮があったかどうかは不明
飯能戦争勃発当時、水天宮が既に飯能河原に祀られていたかは不明だが、水天宮と深い関わりがある久留米藩の藩兵は、戊辰戦争には有馬蔵人(一純、1789~1834)を総督とし、総勢353名が出兵したうち、飯能には村上四郎右衛門が率いる「日新隊」が佐賀藩とともに、現在の飯能市双柳(なみやなぎ)、飯能河原から見ると東側から入った。そこで秀常寺(しゅうじょうじ)に駐屯していた振武軍と打ち合いになったとき、振武軍は筑後藩兵に蹴散らされ、西側の能仁寺に逃げ帰ったという。さらに、福岡藩と共に、久留米藩の別動隊は飯能河原から見て北側にある智観寺に午前5時~8時頃に攻め入り、大砲2発を撃ち込んだ。寺内に振武軍兵を見つけ出すことができなかったため、福岡藩・筑後藩兵は後から反撃されることを恐れ、寺を焼き払ってしまった。
その当時の彼らのいで立ちは、頭に、小さく丸く高くとがった陣笠(じんがさ)をかぶり、そこには有馬家の定紋(じょうもん)、「釘抜(くぎぬき)紋」をつけていた。上着は帯刀(たいとう)に便利なように、背縫いの下半分が割れた打裂羽織(ぶっさきばおり)。そして下履きは、主に布地は木綿。縦縞の小倉織(こくらおり)や紋(もん)散らしの金巾(かねきん)などでつくられ、裾口に太い白紐があり、裾をキュッとすぼめることができるのが特徴的な、丈の短い義経袴(よしつねばかま)で、脛(すね)に脚絆(きゃはん)をつけ、足袋に草履。腰には両刀を差し、更に小銃の弾薬を入れたブリキの長箱の上に革を被せた小かばん(胴乱、どうらん)をつけ、鉄砲を肩に担いだものだった。
最後に
そのような彼らがいた、そして「戦争」が展開した「場所」は、上記からわかるように、飯能河原のそばではなかったものの、もしかしたら、水を飲むためや休憩などを河原で取った可能性がある。そこで故郷・筑後川のそばで大切に祀られてきた「水天宮」を目にし、拝んだ者がいたかもしれない。飯能戦争を含め、戊辰戦争に出兵した久留米藩を含めた多くの藩は後々、藩財政の窮迫化を招き、なおかつ、元兵士たちの発言力が増してしまったことから、戦いそのものに「勝ち」はしたが、明治4(1871)年の廃藩置県までのわずかの間だったとはいえ、その後の藩政そのものに悪影響を及ぼしてもいたという。そのような「飯能戦争帰り」の人々が故郷の久留米に戻ったとき、水天宮が祀られた筑後川とはまた違う風景をたたえた入間川や、飯能のことを思い出しただろうか。
今、飯能河原には、何事もなかったかのように水天宮が祀られている。100年後、200年後、どう変わっているだろうか。古い体制を守ろうとする人々と、自分の命も惜しまず、革命的に、新体制を創造しようとする人々とがぶつかり合い、再び「飯能戦争」のような大乱が引き起こされないことを、切に祈るばかりである。
参考資料
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■「BBQスポット『飯能河原』が一部有料化で利用激減 トラブル減り地域住民は歓迎、周囲の店は不安も(読売新聞)」『東洋経済ONLINE』2022年5月8日(現在閲覧不可)
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■『水天宮』(東京都中央区)
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