言葉について深く思索を行わない宗教・思想は存在しないと断言してよい。しかし現代社会は言葉に対してあまりに鈍感になっている。言葉は単なる伝達手段ではない。意識を変容し人格や行動、社会全体に影響を与える力を持っている。
日本に根づく言霊思想
日本には言葉には神秘が宿っているとする「言霊」を重んずる思想が古来より根付いている。万葉集には山上憶良が「言霊の幸はふ国」、柿本人麻呂は「言霊の助くる国」と詠んでいる。言葉には霊が宿り、言葉にしたものはそれが現実になるとされた。つまり善い言葉を使えば幸福になり、悪い言葉を使えば不幸になる。この思想は現代でも受け継がれている。結婚式で「死」「切る」「別れる」などの言葉はご法度である。めでたい席で不吉な言葉を発するのはそもそもの礼儀として当然であるが、過剰なほどタブー視されている面があるのは否めない。危篤状態の家族に対して弱気になり「もし死んだら」などと口にしようものなら周囲から叱られてしまう。「死ぬ」と言えば本当に死んでしまいそうで恐ろしくなるのだ。科学的にはナンセンスであっても、古来からの記憶がそんな恐怖を呼び起こすのかもしれない。しかし、それはある意味事実である。
仏教の唯識思想
仏教の唯識思想には「熏習」という考えがある。人間の心は8つの階層があり、その最も根底にある層が「阿頼耶識」である。唯識では身体、精神、言語いずれの行動も、自身の阿頼耶識に香りが衣に染み付くように残るとしている。これを「種子」といい種子は蓄積され、人格形成に大きな影響を及ぼすとされる。美しい言葉、丁寧な言葉、悪意のこもった言葉、品のない言葉…あらゆる言葉は阿頼耶識に熏習されその後の人格を作っていく。きれいな言葉が熏じられれば心が浄められ、汚い言葉を使えば心が汚れていくというわけである。
唯識は現代の心理学を先取りしているところがある。安易に重ねるのも危険だが、ここでは阿頼耶識を深層意識の最深部と言い換えてもよいと思われる。様々な体験が深層意識に影響を及ぼし、人格に影響を与えると考えれば、まったく非科学的とも言えない。
心が荒む汚い言葉 親ガチャという言葉
「親ガチャ」なる言葉が流行っているという。「ハズレ」の親を持ってしまったことを「ガチャガチャ」で外れを引いてしまったことにちなんだものらしい。親を選ぶことはできず、生まれついての環境がすべてが決まるとする消極的な発想で賛否両論を呼んでいる。ある若いタレントは、そこまで深い意味はなく軽い気持ちで話してるだけで、世の大人が重く捉えているとの見解を述べていた。案外そんなものかもしれない。自分が中高生の頃を振り返ると意識の浅さが思い出される。特に子供や若者は言葉に対する意識は希薄である。反抗期に母親に「クソババア」と罵り、喧嘩するときに「ぶっ殺す」と凄むのに深い考えがあるわけではない。感情のその場の「ノリ」が支配していたものだ。一部を除いて大抵は成長しながらそうした言葉は薄らいでいく。しかし「親ガチャ」という言葉は親や家族を否定し、自分の可能性も否定するもので、未来への希望を閉ざす危険な言葉に思える。
本質変わらず変化した荒んだ言葉 売春
最近は「売春」という言葉を聞かなくなった。今の若い世代はこの言葉を知らなくてもおかしくはないし、かつての「援助交際」を指す言葉として知ってはいても、その薄暗さまでは追体験できないだろう。「売春」は「援助交際」、「エンコー」に取って変わられた。「売る」のではなく「援助」をしてもらう。より受け身になり罪の意識は薄くなる。さらに世の大人たちは「買春」という言葉を作った。これ自体はよい。売春だけでは女性が主導する犯罪である。しかし「売春」が消え、援助交際の提供者を被害者として「買春」のみを普及させた。このことも少女たちから罪の意識を薄くさせることになったと思われる。そして近年「援助交際」は「パパ活」となる。ここには「売る」「援助」といった金銭授受の要素すらない。やっていることはほぼ変わらないにもかかわらずイメージの軽薄化はとどまるところを知らない。たかが言葉ではない。軽い言葉は簡単に行為に対する抵抗を奪う。唯識の理論が正しければ、軽い言葉や悪質な言葉は最深層意識である阿頼耶識に熏習され、心が荒んでいくことになる。
心を浄めるきれいな言葉
言葉で水の結晶が変化すると主張する本が話題になったことがある。水に「ありがとう」などのきれいな言葉をかけたり紙に書いて見せると結晶が整い「ばかやろう」などの汚い言葉は結晶が崩れるという。はっきり言ってそんなはずはない。道徳と自然科学を混同してはならない。しかしきれいな言葉として「ありがとう」を選んだのは納得がいく。
最もきれいな言葉は感謝を表す言葉ではないか。それも何か物を買ってもらったとか、願いごとが叶ったから感謝するのではない。それは対価であり取引である(礼儀として正しい)。自分の意志で生まれたわけではない。自分ひとりの力で生きているわけではない。生きていることは生かされていること。その奇跡に感謝する心である。その「ありがとう」は唯識思想に従うなら阿頼耶識に熏じられ、親を否定し運命を呪う荒んだ人格になることを防ぐはずである。
また、先ほど「死ぬ」と言えば本当に死んでしまいそうで恐ろしくなると書いたが、絶望のあまり運命を呪い世を人を呪う言葉を発していればますます自分を追い込むことになる。笑うことでガン細胞が消えたという話があるが、笑いの現場には様々な楽しく明るい言葉が交わされていることだろう。いざその時を迎えても、周囲の人がいるなら「死にたくない」「死なないで」ではなく「今までありがとう」「また会おうね」などと感謝の言葉、明るい言葉をかけ合うことができるなら理想である。その言葉は旅立つ人と見送る人の双方の阿頼耶識に熏習され心が浄められるからである。
言葉で変わる未来
情報社会において言葉は善悪の吟味などされることなくたれ流されている。ネットなどを通じて悪意ある言葉ひとつで人の命を奪える時代である。たかが言葉ではない。言葉には霊が宿り、きれいな言葉も汚い言葉も、石に文字が刻まれるように心に刻まれる…と考えれば気軽に使えなくなるはずだ。言葉次第で自分も世界も変わる。我々は先哲の教えに従い、言葉についてより深く考えなくてはならない。
参考資料
■葉室頼昭「<神道>のこころ」春秋社(1997)
■横山紘一「唯識の思想」講談社(2016)
■横山紘一「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」(2011)