江戸時代末期、貿易港として諸外国に門戸を開いたのをきっかけに、函館には多くの外国人が渡来し、居留するようになる。その後母国に帰ることなく、この地で命を落とした人のために、外国人墓地が函館山北西側の高台に作られた。その高台は漁船や貨物船などの船舶が航行する函館港内を一望できるほど、絶景が広がっている。そんな外国人墓地の近くにある、函館厚生院墓地には赤墓とよばれる真っ赤なお墓が存在する。一体誰のお墓なのか、どうして赤いのか。
函館の外国人墓地のはじまり
外国人墓地は、市電の終点から坂を登り、お寺や墓地を進んだ先にある海を見下ろす高台にあり、1854年にペリー艦隊の水兵2名を埋葬したのが始まりである。その後1855年に日本海を航行していたフランス艦内で疫病が発生し、多数の犠牲者が出たため、1870年に開拓使と在函5カ国領事との間で正式な外国人墓地設置に関する協定書が交わされた。
さまざまな宗派の墓地
外国人墓地には、ロシア系、中国系、プロテスタント系など宗派別に区画分けされている。プロテスタント墓地は、広さ約200坪の敷地に41基の墓が並ぶ。領事や商人、海兵など、国籍もイギリス、ドイツ、アメリカ などさまざまな方が眠っている。広さ約500坪あるロシア人墓地に43基の墓があり、初代領事ゴシケヴィッチの夫人のものも含まれている。そして、函館中華山荘は明治9年に清国人墓地として中国人の遺体を埋葬したのが始まりであり、大正8年の大修理の際にレンガ塀が作られた。また、外国人墓地の手前には、名刹高龍寺があり、外国人墓地以外に、キリスト教日本人墓地、地蔵寺の墓地、南部藩の墓、シャルトル聖パウロ修道女会墓地(カトリック墓地)、ハリストス正教会墓地、少し先に函館厚生院墓地がある。
函館厚生院墓地の真っ赤なお墓の正体とは
函館厚生院墓地は外国人墓地から450mほど登った先にある。そこに表も裏も真っ赤に塗られ、白字で「天下の号外屋翁の墓(てんかのごうがいやおうのはか)」と書かれた赤墓がある。案内板によると、明治27年に本州から函館へやって来た信濃助治という方のお墓であるという。信濃助治は、当時かなり有名な人物であったようだ。なぜなら、来ている衣類だけでなく、帽子や足袋まですべてが赤ずくめだったからである。彼は、日清戦争の頃に北海新聞の号外を函館市民にまいていた。そして、自身を天下の号外屋”とし「赤服」と呼ばれていた。どうして赤い色だったのだろうか。
いつわりの無い心
中国の後漢書に「赤心を推(お)して腹中(ふくちゅう)に置く」という故事成語がある。これは、人を疑わないことのたとえであり、まごころを持ってすべての人に接することのたとえとして使用される。赤心とは、いつわりの無い心を意味しているのだが、信濃助治はそれを日本武道の精髄を表すとして、大切にしていたため、すべて赤色を用いたとのことである。よって、彼の墓も当人の遺志によって赤く塗られており、今なお年1回親族によって塗り替えられている。
最後に…
この墓にまつわる怪しい噂があり、墓の裏の漢文を声に出して読むと祟られるというものである。しかし、裏面には、「大正元年八月建之 先祖 信濃忠左衛門 七代目 信濃助治 昭和四年六月五日午前五時没 行年六十八 妻 信濃シゲ 明治三十九年五月廿三日没 行年三十九」と書かれており、漢文ではなく通常のお墓の裏面と変わらず、どうやらこの噂はデマだったようだ。