今現在、世界中の人々が恐れていることは、変異株も登場した新型コロナウィルスの感染拡大、そして先の見えない収束が挙げられるだろう。しかし、「恐ろしいこと」は何も、伝染病ばかりではない。「地震 雷 火事 親父」ではないが、火事は人類にとって、今日もなお、大いなる驚異のひとつである。
ホテルニュージャパンの大火事
そのような怖い「火事」だが、戦後から今日までの日本において最も衝撃的だったもののひとつは、1982(昭和57)年2月8日月曜日の深夜3時39分に、日本の中枢である国会議事堂や首相官邸からもほど近い、東京都千代田区永田町2丁目に位置した、地下2階、地上10階建て、テナント数26店舗、建築面積5287㎡、延べ面積46697㎡、宿泊室数は420室、収容人員2946人という、大規模かつ「国際的」なホテルだった、ホテルニュージャパンで発生したものが挙げられるだろう。
日本中が震撼したホテルニュージャパンの火災
設計は、早稲田大学の大隈講堂や東京・新橋の新橋駅前ビルで知られる佐藤武夫(1899〜1972)によるものだ。そして内装を手掛けた、世界的に著名な剣持勇(1912〜1971)が「このホテルが海外一流ホテルの亜流となるためではなくて、如何にユニークネス(uniqueness 唯一無比)をうちたてるか」と語っていたように、ホテルニュージャパンは、戦後復興を見事に遂げた日本、そして「国際都市」東京を象徴するホテルとして開業したのである。しかし火災は、9階に宿泊していた客の寝たばこの不始末から発生した。しかも不運なことに、ホテル内部にスプリンクラーなどの消火設備、危険を知らせる火災報知器や放送設備などが完全な形で整えられていなかったことから、当日は352人の宿泊客がいたというが、死者33人、負傷者34人にも及んだ大惨事となった。しかも死者のうちの13人は、火災による一酸化炭素中毒や全身やけどなど、直接的なものではなく、火から逃れるために、窓から飛び降りたことが原因だった。649人の消防署・消防団員、ポンプ車48台、はしご車12台を含む123台の緊急車両が出動し、消化・救助活動を行った。鎮火は9時間後の12時36分。その間、テレビで逐一、火災の様子が生中継され、日本全体に衝撃を与えた。
明和の大火は火元の大円寺の寺僧による放火が原因だった
大規模火災と言えば、江戸時代の「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が物語るように、かつての江戸市中でも、多くの大惨事が発生した。例えば「江戸の三大大火」のひとつ、「明和(めいわ)の大火」は、当時の武蔵国荏原(えばら)郡下目黒(しもめぐろ)村、現在の東京都目黒区下目黒、JR山手線・東急目黒線・地下鉄南北線目黒駅西口の行人坂(ぎょうにんざか)の脇にある大円寺(だいえんじ)が火元だった。1772(明和9)年2月29日、かねて住職に恨みを抱いていた寺僧・眞秀(しんしゅう)が寺に火を放ったのがきっかけだった。折からの強風にあおられ、火は見る見るうちに燃え広がり、永峰町通り(現・品川区上大崎)・白金・麻布・飯倉・桜田(現・港区麻布)・日比谷・西丸下(現・東京都千代田区)から神田橋・常盤橋(現・東京都中央区日本橋)に及んだ。更に神田小川町・向柳原(現・台東区浅草)・湯島天神・上野・浅草を経て千住大橋(現・東京都荒川区)を焼き、小塚原(現・東京都荒川区)まで達した。しかし再び、夜間に本郷(現・東京都文京区)の芸妓屋から出火し、森川・追分・白山から、谷中・根岸まで広がった。そして翌日、常盤橋外の火が再び燃え出し、日本橋から京橋付近まで、合計628町を焼き尽くし、犠牲者は2万人にも及んだのだ。
この大火は市中のみならず、江戸城内の櫓にまで火が及んだことから、大円寺は76年間、再建が許されなかったが、境内にはこの大火の犠牲者を供養するため、50年の年月をかけてつくられたという、五百羅漢像が残っている。今日、我々の目の前に広がる、無数の羅漢さんのおだやかな風貌から、当時の大惨事は全く想像できない。それが逆に火事の怖さ、そして人の命があっさりと失われてしまうはかなさを感じさせる。
増上寺にてホテルニュージャパン火災の犠牲者を供養した
また、ホテルニュージャパン火災においても、後に刑事責任を問われ、禁錮3年の実刑判決を受けた経営者の横井英樹(1913〜1998)によって、火災から5年後の1987(昭和62)年2月8日、火災当日に仮通夜が営まれた港区芝公園にある増上寺(ぞうじょうじ)の三解脱門(さんげだつもん)をくぐった左手脇に、聖観世音菩薩が建立された。その台座には、「ホテルニュージャパン罹災者のみたま/とこしえに安からんことをお祈りして」と刻まれている。
最後に…
「明和の大火」の残骸はもちろんのこと、今日、ホテルニュージャパンの跡地には、2002(平成14)年に開業した38階建ての「都市型コンプレックス」を誇るプルデンシャルタワーが建っている。そのため、かつては両翼に地上10階の窓と壁の線がくっきりと別れ、その横の線が強調された大ビルを背負う格好で長さ61m、高さ10m余りのタイル張りの大壁面がしつらえられ、更に10階建ての建物が四方に胸を突き出したように屹立していた外貌から「そのボリュームの美しさがあたりを睥睨して、一度は入ってみたくなるような気分を出させる」と評されたホテルニュージャパンが存在していた痕跡は全く残っていない。しかし、「ここ」に限らず、また、「都会」「田舎」を問わず、大規模火災が起こる可能性は決してゼロではない。当たり前に日々、火を使い、生活を営んでいる我々だが、「火」の威力を正しく恐れ、「火の用心」に心がけたいものである。
参考資料
■牧直視「HOTEL NEW JAPAN -Minato-ku Tokyo-」『インテリア -JAPAN INTERIOR DESIGN and DECORATION』No.1 1960年(15−33頁)株式会社日本室内設計研究所
■重松敦雄「ホテルニュージャパン」日本ホテル協会(編)『Hotel Review』No. 124 1960年(5−8頁)日本ホテル協会
■東京都立大学学術研究会(編)『目黒区史』1961/1962/1970年 東京都目黒区
■山本和夫・寺尾憲太郎「目黒区文化財散歩」目黒区郷土研究会・東京にふる里をつくる会(編)『東京ふる里文庫 4 目黒区の歴史』1978年(163−226頁)名著出版
■塚本孝一「ホテル・ニュージャパンの火災について」日本火災学会(編)『火災 日本火災学会誌』Vol.32, No.3 1982年(22−34頁)日本火災学会
■「ホテルニュージャパン火災」『Aflo』
■「死者33名 史上最悪の『人災』 ホテルニュージャパン火災を振り返る」『週刊現代』2017年3月5日
■「目黒駅前のパワースポット『大圓寺』と周辺の魅力を徹底解説!」『東京ルッチ』2019年9月28日/2021年4月21日
■「NHK放送史 ホテルニュージャパン火災」『NHK』
■「プルデンシャルタワーレジデンス」『MORI LIVING』
■「歴史を訪ねて 大円寺」『目黒区』
■「松林山 大圓寺(大円寺 通称:大黒寺)」『天台宗東京教区』
■「ホテルニュージャパン(PDF)」『消防防災博物館』
■『大本山 増上寺』
■「聖観世音菩薩」『港区観光協会 VISIT MINATO CITY OFFICIAL VISITOR GUIDE』