日本には外国人墓地と呼ばれる場所が存在する。その名の通り日本に来日し、そのまま日本で亡くなった外国人が眠る墓地である。横浜や神戸の大規模な外国人墓地があることをご存知の方は多いのではないだろうか。日本に外国人墓地があるように、海外には日本人墓地が存在する。アジア、ヨーロッパ、アフリカなど世界の全地域にわたって存在が確認されている。日本人墓地に埋葬されている人々の渡航目的は様々である。戦争、帰化、職業の都合、移住などがある。そして近代に作られた日本人墓地には悲しい歴史が背景にあることが多い。
シベリア抑留を始めとした降伏日本軍人の抑留
例としてウズベキスタンの首都タシケントに存在する日本人墓地をみてみよう。ウズベキスタンは中央アジアに位置する共和国である。1991年ソビエト連邦が崩壊するまではソ連の構成国であった。1945年日本はアメリカおよび連合軍に無条件降伏することによって太平洋戦争が終結した。終戦直後旧満州や樺太に駐留していた日本人は日本へと引き揚げていった。しかし中にはソ連軍に捕虜として捕らえられ、帰国できない人々もいた。日本兵の数だけで約57万人はいたといわれる。捕らわれた人々はソビエト連邦国内の各地に連行され、過酷な労働を強いられた。これをシベリア抑留という。
ウズベキスタンの首都タシケントにも日本人が抑留されていた
タシケントも日本人が抑留された場所のひとつである。約2万3千人の日本人捕虜がウズベキスタンに送られ、建設事業などに携わった。タシケントにナヴォイ劇場という国立劇場があり、現在もオペラやバレエの公演が行われている。この劇場は日本人捕虜が建設に関わった建築物のひとつである。ウズベキスタンの紙幣にはこのナヴォイ劇場がデザインとして使われておりウズベキスタンを代表する建築物であることがわかる。
日本に戻ることなく亡くなった方は約58000人
しかし十分な食事を与えられない中の過酷な労働、寒冷地という環境の中、栄養失調や病気などで多くの日本人捕虜が亡くなった。日本とソ連の国交が回復すると捕虜の引き揚げが始まったが、日本の土を踏むことができず亡くなった方は約5万8千人にのぼるといわれている。
タシケントにある日本人抑留者墓地は現在は丁寧に埋葬されている
ウズベキスタン全土でも約800人以上の日本人捕虜が亡くなった。ウズベキスタンには現在13カ所の日本人墓地がある。その中でもタシケントにある日本人墓地にはウズベキスタン全土の日本人抑留者墓地の共同慰霊碑が建てられている。ソ連の支配下であった頃は遺体に土を盛っただけであったが、ウズベキスタンが独立した後、遺族やウズベキスタン政府の協力により、現在は戦没者名を刻印した墓石が設けられた。各地の日本人墓地はその当時から現在までウズベキスタン人の墓守が管理している。
ウズベキスタンは親日
ウズベキスタンでは日本人に対し尊敬の意を向ける方が多いという。なぜなら日本人は現地の人々に大変親切に接していたこと。また捕虜の身でありながら懸命に仕事に取り組み、ウズベキスタンの人々が使う施設を作り、国に貢献したと考えられているからである。大きな地震が起きても日本人が作った建物は倒壊せず、現在も使用されていることなどがウズベキスタンの人々の信頼に繋がっているのであろう。その功績を伝えようとウズベキスタン人個人が開設した資料館まで存在している。
歴史の大きな波に翻弄され、はるか遠く離れた場所で静かに眠る日本人がいることを記憶に留めておきたい。