「葬儀離れ」「墓じまい」が進んでいる。葬儀・墓参・法事、そして祈祷など、仏教において儀礼・儀式は欠かせないものである。だが明治・大正期、近代知識に基づいた僧侶、仏教学者たちがそれらを「迷信」と批判し、仏教の近代化を目指したことがあった。その背景と発端、結末とは。
合理主義がもたらした「迷信打破」と「新仏教」
江戸期における檀家制度(寺請制度)の下で安定した地位を得ていた多くの仏教宗派は形骸化していた。だが明治維新後、明治政府は神道の国教化を企て「神仏分離令(1868)」を進めた。寺請制度や神宮寺などの廃止、神社内での仏教儀礼の禁止などが行なわれ、仏教文化に対する破壊運動「廃仏毀釈」という嵐を起こす結果を呼んだ。
弱体化する仏教に「文明開化」という近代化の波が押し寄せた。世界を席巻する欧米列強諸国から、合理主義、科学的世界観、社会啓蒙思想などが次々と輸入され、日本に近代的知識人という層が生まれた。こうした中、仏教側も近代的な再編が急務となる。井上円了、清沢満之、近角常観といった知識層仏教者が登場し、新しい時代の仏教を模索した。
1900年、若い世代の知識層仏教者たちが「新仏教徒同志会(当初は仏教清徒同志会)」を結成し、雑誌「新仏教」を創刊。仏教の近代化に邁進する「新仏教運動」を起こした。中心になった境野黄洋(哲)、高嶋米峰、渡辺海旭らのうち多くが、井上円了が創始した「哲学館」の出身である。
近代化に向けた具体的なコンセプトは「迷信打破」と「社会参加」である。前者は、祈祷や呪い(まじない)、そして葬式仏教を批判。後者は社会問題(貧困・労働・女性差別など)への参与。後者の面では幸徳秋水ら社会主義者との交流もみられた。
彼らは神仏や来世、地獄、極楽などの実在を前提とした、葬儀や祈祷などの宗教儀礼を「旧仏教」として批判し、内面的な信仰を追究する「新仏教」を自称した。
仏教という「宗教」が、それらの実在を否定するとはどういうことなのか。宗教そのものを否定する唯物論ではないのか。これはキリスト教の宗教改革を例に挙げるとわかりやすい。彼らが主張する「新仏教」は、カトリックに対するプロテスタントと似ている。
マルティン・ルターを嚆矢とするプロテスタント諸派は、教会の様々な儀礼、儀式を否定し「聖書のみ」を主張した。プロテスタントから見れば、カトリックの聖母信仰や聖人崇敬、壮麗だが聖書に指示されたわけでもない儀礼や儀式は不純物であった。
仏教には「己心の弥陀・唯心の浄土」という言葉がある。仏も浄土も、外に求めるものではなく、自分の心の中に存在しているとする。極楽浄土は遥か西方の彼方にある楽園ではない。釈迦が説いた「本来の」仏教では、一切の現象は「空」であり「心」の現れである。この考えでいえば浄土とは、自身の清らかな心の現れということになる。己身の弥陀も、阿弥陀仏はキリスト教のように、外の世界に実在する絶対的な他者ではなく、人間が本来持っている仏の心、「仏性」のことだとする(WEB版新纂浄土宗大辞典)。つまり、新仏教は仏教を民俗的な信仰から、近代哲学へと発展させようとした。
この方向では浄土真宗がかなり近い距離にいた。戦国期に来日した宣教師は真宗門徒をルター派に似ていると書いている。真宗寺院には阿弥陀像がひとつあるだけで、他の神仏はいない。お守り、おみくじ、御朱印といったグッズ無し、供養やご祈祷も無し。ひたすら念仏あるのみ、信仰あるのみである。新仏教徒同志会の初期メンバーは真宗者が多かった。井上円了も真宗大谷派である。
知識層の哲学vs庶民が求める「現世利益」
新仏教運動は仏教を旧態依然とした非現実な宗教体系から、理知的な哲学として生まれ変わらせようとする現実主義と、その現実主義をもって現実の社会に影響を与えようとする社会貢献に舵を切った。
このような考え方は、哲学的要素が強い禅系にも響きやすかった。その一方で、存在そのものが否定されかねなかったのが密教系。特に真言宗である。新仏教のターゲットは祈祷やまじない、非現実的な世界観。葬送儀礼などだ。真言密教はその総本家ともいえる存在であった。真言宗側も近代化の流れに対して、全面的に抵抗しようとしたわけではなく、時代に対応しようとする動きもあった。
だが、この衝突は結局、現実主義の衰退と祈祷、儀礼の再評価という結果で終わった。具体的には日清戦争を契機に、戦歿者供養や戦勝祈願などが再評価された。つまり、「新仏教」ー哲学としての仏教ーはあくまで知識層の間の話であって、庶民には難解であり、彼らは身内の葬儀や法事、死後の極楽往生を求めていたのである。現世利益の必要性、密教の存在意義は結局はそこにあった。祈祷や葬儀こそ現実的な安心を与えるものだったのだ。例えば、真言宗の僧侶・石堂慧猛は真言宗の機関誌「六大新報」で、盂蘭盆会などの儀礼は父母や祖先を顧みない時代における役割だとする主張している。明治時代後期で既に、現代のような指摘がされていたのである。
なぜ理屈だけでは「生と死」を救えなかったのか
新仏教運動の迷信批判には庶民の気持ちが反映されなかった。例えば昔ながらの葬儀が非合理的であろうと、遺族側からすれば単なる「迷信」ではない。葬儀は現代に至るまで、死を受け止める時間、死者との関係の再構築など「区切り」として機能している。また、祈祷も合理主義的に見れば病気は医学の領分で、祈祷は非科学的なまじないとなる。しかし実際には、人間は医学ではカバーできない不安や恐怖、喪失に襲われる。そもそも儀礼とは、信仰を可視化したものでもあり、信仰そのものを形成する。内面に信仰があり、その表現として儀礼がある。同時に儀礼を通じて信仰が生まれる側面もある。念仏、合掌、焼香、といった所作、儀礼は「死者との関係」を問いかけ、「無常」の教えを否が応でも直面する。これは頭だけ、知識だけでは成立しない。
実際の「旧仏教」では、高額な戒名、祈祷の乱発、僧侶の堕落などが深刻だった。新仏教運動は若い世代の仏教者たちが仏教の宗教性そのものではなく、形骸化した形式を攻撃したかった面もある。ただその批判が進みすぎると、儀礼そのものが不要という方向へ行ってしまい、宗教がただの倫理思想になるという問題を起こしてしまった。戦争のように生と死が交錯する現実主義の現場において、理念や倫理は救いとはなり難い。現実を超えるものが宗教であるはずで、儀礼儀式はその象徴だったのである。
1915年「新仏教」廃刊。組織的運動としての新仏教徒同志会は事実上解散した。そして、檀家制度は弱体化し、葬儀離れ、墓じまいなどが急速に進みつつも、葬祭儀礼を中心に地域社会に根を張り続けている。
また、「社会参加」の側面においても、反国家的・反体制的側面が国家権力による抑圧を招いたことも付記しておきたい。
儀礼という救いー現代に届く120年前の問題提起
仏教は開祖からして宗教というより哲学の側面が強い。その意味で新仏教運動が目指した合理的・倫理的・内面的な宗教という方向性は間違ってはいなかった。しかし実際の宗教は単なる思想ではない。感情、死者との関係などを含めた、儀礼体系である。
日本仏教史を紐解くと、哲学化した奈良・平安仏教に対して、庶民への救いの思いから鎌倉仏教が生まれるに至る歴史があった。新仏教運動はその流れを逆行したものだったといえるかもしれない。
とはいえ、若い仏教者たちの新しい仏教を追い求める思いは純粋であった。彼らの問題提起ー迷信批判、社会参与などーは後の日本仏教に大きな影響を与えたのである。
迷信と慣習、信仰と理性の関係、庶民と知識層の乖離。彼らの足跡は現代における宗教とは何かを問い続けている。
参考資料
■池田英俊「明治の新仏教運動」吉川弘文館(1976)
■池田英俊「明治の仏教 その行動と思想」評論社(1976)
■阿部貴子「真言僧侶たちの近代」『現代密教』第23号 智山伝法院(2012)
■大谷栄一/吉永進一/近藤俊太郎編「近代仏教スタディーズ」法藏館(2016)
■WEB版新纂浄土宗大辞典



























