浄土真宗の寺院に置いてある小冊子「真宗の葬儀」には、葬儀とは「死別を縁として遺された者が仏法に出遇うということに大きな意味がある」とし、「亡き人を縁として私が念仏の教えに出遇う儀式」であると書かれている。真宗における葬儀は死者への鎮魂ではなく、生者の、つまり我々のためのものだという。仏法というと限られてしまうが、生とは死とは何かを考える機会を与えられると言い換えてもよいかもしれない。
浄土真宗にとって葬儀とは
葬儀が生者のためのものであるなら死者はどうなっているのか。真宗では死者は阿弥陀仏の世界(浄土)に生まれ仏になる修行をしているので、迷える魂の成仏を願う鎮魂の意味は存在しない。
なぜそう言い切れるかというと、真宗の根本経典「無量寿経」などでは、阿弥陀仏は善悪問わず一切の衆生を救い取ると誓っているからである。よって葬儀とは、鎮魂などする必要はなく、そのような教えを学ぶ機会ということになる。
斎場は我々もまたいつかは死ぬという事実を受け止め、その先にある真実を学ぶことができる場である。そして死者はいずれ後に続く我々に学ぶ機会を、縁を結ばせる先人としての役割を果たす。
小冊子では宗教的儀式を行わない「直葬」を単なる遺体処理だと批判していが、真宗の教えからすれば、先人である死者を単なる遺体として片づけ、先人の導きを無視する無礼な行いということになる。
死の問題
真宗とか仏法とか言うと、関わりのない人にとっては、あまり響かないかもしれない。しかし、真宗のこの教えを、「葬儀とは死者を通じて生死を学ぶ場」と考えれば、単なる形式的な儀礼、慣習になりがちな葬儀にも積極的な意義を見いだせる。
死の問題は子供の頃に一度は考えるものだ。筆者もそうだったが、死の意味がわかり始めると、自分もいつかは死ぬのか、お母さんも、お父さんも死ぬのか。そう思うと恐ろしくて堪らなくなった。その後、成長するにつれてそうした思いを抱くことは少なくなってくる。社会に出て、様々な人と触れあい、経験を積んでいくうちに、そのような漠然とした不安に陥る暇はなくなっていく。しかし、死は人を確実にやってくる。
藤子・F・不二雄の短編 「ある日…」
藤子・F・不二雄の「ある日…」という短編がある。4人のアマチュア映像家がそれぞれの作品を批評し合う映写会を開いた。その中のひとりの作品「ある日…」は、ありふれた日常の光景が延々と流され、突然、プツリと消えるというものだった。何の伏線も意図も感じられない平凡な内容に皆が嘲笑すると、製作者の男性はその内容の真意を語りだす。
「『ある日』は突然やって来る。『伏線』など張るひまもなく。『ある日』がいつくるか・・・今日にも・・・」
物語はこの直後、彼の主張が証明されるひとコマで終わる。この作品は冷戦時代の核危機を指摘するものだったが、核に限らず「ある日」はいつでもやってくる。
2019年7月25日、小惑星が地球の近くを通過していたが
7月25日、直径約130メートルの小惑星が地球の近くを通過していたことが分かった。もし地球に衝突していれば、東京都と同規模の範囲を壊滅させるほどの大きさ。通過前日の24日に初めて見つかり、関係者を驚かせた。国際天文学連合によると、「2019OK」と名付けられたこの小惑星は、地球から約7万2千キロ離れた場所を通過。月との距離の5分の1ほどで、天文学的にはニアミスだった。地球に衝突していれば東京都と同規模の範囲を壊滅させるほどの大きさだったという(共同通信社 2019/7/29配信より抜粋)。
小惑星の発見は極めて難しく、発見したところで撃墜はほぼ不可能であり、仮に成功しても破片が高速で地上に降り注ぐ。こんなことが宇宙では頻繁に起こっている。2013年のロシア・チェリャビンスク州隕石落下の時も観測することはできなかった。この時は死亡者は出なかったものの、1491人の負傷者が出ている(Wikipedia参照)。隕石落下による壊滅は絵空事ではなかったのだ。
私と死の距離感
旅客機は最も安全な乗り物だと言われている。最新の技術、綿密なチェック体制、空には障害物もなく飛び出してくる人間もいない。旅客機事故はレアな出来事である。しかし「旅客機が墜ちる確率は0.0001%」だとして、実際に墜落した乗客にとって、そのようなデータはなんの意味もない。意味を持つのは「その」旅客機に乗らなかった人だけである。「その」旅客機の乗客である「私」にとっては100%だ。確率論や統計学には「私」の存在が抜けている。そして死ぬのは「この」「私」である。死はいつでも生の隣にいる。
頭ではわかっていながら、我々は死から目を背けている。藤子の「あの日」は伏線もなくプツリと途切れてしまったが、実際の「あの日」は突発的な事故や突然死でもない限り、伏線が張られるのがほとんどのはずだ。目を背けてきた真実と直視せざるをえなくなる。
仏教の教え
仏教では生と死に違いはないと説く。「刹那滅」という考えがある。一瞬一瞬、その瞬間は毎瞬消滅している。新陳代謝がそうだ、細胞の在り方は常に変わっている。現在は刹那である。こうして書いている私もその瞬間、違う私となる。つまり我々は常に死んで生まれ変わっているのである。ハイデガー()1889~1976)に言わせれば「死は生の現象」である。我々は常に死んでいる。ならば死を恐れることがあるのか。
一般的な葬儀でそういうことを学ベるわけではないが、宗教的なものと触れる機会の少ない現代人にとってはきっかけにはなるはずである。
メメントモリ(死を思え)
葬儀は死を意識し、死を考える貴重な場なのであり、我々に学ぶ場に導いてくれる死者に対しては礼を尽くさねばならない。別れのために泣くこともない、我々も後でそっちへ行くからその時はよろしくお願いしますというわけだ。それが葬儀の積極的な意義である。葬儀の他にも死を考える機会はある。7~9月はお盆とお彼岸の月だ。導いてくれる先人たちと共に考えてみたい。
参考資料
■「真宗の葬儀」真宗教団連合 東京支部
■藤子・F・不二雄 「ある日…」『パラレル同窓会 藤子・F・不二雄 異色短編集4』小学館文庫(1995)
■河田直樹「数学的思考の本質」PHP研究所(2004)
■「小惑星が地球とニアミス」2019年 7月29日配信(一般社団法人共同通信社)
■2013年チェリャビンスク州の隕石落下