1970年代後半にイギリスを席巻したパンクムーヴメント。その火付け役だったのが、1975年にデビューしたバンド「セックス・ピストルズ」だ。
「アナーキー・イン・ザ・UK」「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」といった反体制的な歌詞、安全ピンを取り入れた攻撃的なファッション、メンバーのスキャンダラスなライフスタイルなどでメディアから注目されたセックス・ピストルズ。
しかし、こんな反逆児の代表のようなピストルズ誕生の背景には、奇抜なアイデアで時代を先読みする仕掛け人がいた。それがマルコム・マクラーレンだ。
マクラーレンの一大プロジェクトに過ぎなかった「パンク」
1960年代、アートスクールに通っていたマクラーレンは、そこで後のカリスマファッションデザイナー、ヴィヴィアン・ウェストウッドと出会い、2人は1971年にロックをコンセプトとしたブティックをオープンする。
その後渡米し、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドらのニューヨーク・パンクに影響を受けたマクラーレンは、帰国後、パンクミュージックで「音楽業界を破壊する」策略を立てる。そこで目をつけたのが、店に出入りしていた不良少年たちのバンドだ。マクラーレンは、ヴォーカルに自らが選んだジョニー・ロットンを加え、バンド名を「セックス・ピストルズ」と改めると、当時の音楽シーンを根底から否定するようなシンプルなロックサウンドで鮮烈にデビュー。ピストルズとパンクファッションは、またたくまに英国に大ブームを巻き起こした。
しかし、麻薬漬けのベーシスト、シド・ヴィシャスの死をもって、そのムーヴメントはわずか2年であっけなく終焉を迎える。ところが、マクラーレンは立ち止まらなかった。これからどうするのかと問いかけたヴィヴィアンに、マクラーレンはこう答えた。
「これからは、ロマンティックの時代だよ」
この後、1980年代のUKミュージックは、ニュー・ロマンティック、もしくはニュー・ウェーヴと呼ばれる時代に突入して行く。
最高にクールだったマクラーレンのお葬式
「どんなときでも、とにかくファッションだ」
そう言って流行を作り続けたマクラーレンは、2010年に64歳で亡くなった。4月22日にロンドンで行われた葬儀は、そんな彼の生き様を表すようなものだった。
ラジカセの絵が描かれた棺、その側面には「TOO FAST TO LIVE TOO YOUNG TO DIE(生き急ぐな、死ぬには早すぎる)」という文字。これは、ヴィヴィアンと共に経営していたブティックの名前だ。四頭立ての馬に引かれたガラス張りの霊柩馬車が、その棺を乗せて駆け抜ける。その後には、参列者たちが乗る「MALCOM WAS HERE(マルコムはここにいた)」と書かれた2階建てバスが続く。
元パートナーのヴィヴィアンをはじめ、アダム・アント、ボブ・ゲルドフ、ピストルズオリジナルメンバーのグレン・マトロックなど、パンクの生き証人といえる参列者たちが、「KHAOS(混沌)」と書かれたヘアバンドを巻いて目頭を抑えるヴィヴィァンを筆頭に、それぞれ思い思いのパンクエッセンスに満ちた葬儀ファッションで参列。葬列が行く沿道には、モヒカン刈りにレザージャケットのパンクスたちが溢れ、我らがパンクの父を見送った。
棺の中のマクラーレンも、この華やかな一大イベントにさぞ満足していたことだろう。
パンクスピリッツはどこに
マクラーレンは、ピストルズにプロとしての演奏や歌唱力を求めてはいなかった。ピストルズは、マクラーレンが描くムーヴメントを実現するための道具に過ぎず、たったの21歳でこの世を去ったシド・ヴィシャスは、その犠牲となった気の毒な若者だった。
では、パンクは幻想でしかなかったのか。そうではない。パンクなしには、その後のグランジもオルタナティヴロックも生まれなかった。
「レザージャケットとバイクブーツを死装束にして、さようなら」と遺書に書き残したシドは伝説となり、今もなお世界中のサブカルチャーの中で、そのパンクスピリッツは生き続けている。