あの世とこの世を分ける境界線は、どこにあるのだろうか。この問いに対しては、古代の人々の方が、より自信をもって答えられるかもしれない。それは三途の川と呼ばれ、人々の生と死の世界を分かってきた。そして今、その境界線はより多様になり、また物質化してきている。現代の死生観における、命とその終わりについて、境界線という切り口から考えてみる。
川を渡るアニメのキャラクター たち
スタジオジブリ作品には、川を渡る描写が多用されていることをご存じだろうか。2001年に公開された「千と千尋の神隠し」は、主人公の少女・千尋とその家族が神々の訪れる不思議な湯屋にて大冒険を繰り広げる物語だ。その冒頭シーンで、千尋達一家は暗いトンネルを抜け、またいで通れるほどの草原を流れる小川を超え、不思議な廃テーマパークに迷い混む。その中心にそびえ立つ巨大な湯屋の主人・湯婆々の魔法によって両親を豚に変えられた千尋は、夕闇迫る道のりを泣きながら逃げようとする。しかし、昼間は小さな水たまりのようだった川が、まるで中国の大河のように深く巨大になり、元来た道を戻れなくなってしまう。そして、川向う、すなわち彼岸の世界から、湯屋で疲れを癒すために怪しげな神様たちの乗る船がやって来る。
他にも、2014年公開の「思い出のマーニー」で、主人公の少女・杏奈が湖畔にたたずむ不思議な洋館で、恐らくは死者と思われる金髪の美少女・マーニーと出会う時、彼女は何度も湖を超えて向こう岸まで渡っていく必要がある。1997年公開「もののけ姫」にて、主人公のアシタカ丸がシシガミの森に入る時(現代の東北地方から関東に入る時)、濁流渦巻く川を越える。
意図してかしらずか分からないが、いずれにしても、境界としての川を渡り、その後に不思議な世界へと迷い込むという描写は、人気の出る作品としては必要条件の一つのようで、多くのファンタジー作品に類似の描写が見られる。
境界線の向こうには死者の世界が広がっている
人間の共通した感性として、川の向こう=死者の世界・異界という感覚が存在しているのは確かなようだ。境界となる川を渡ると、その先を死者の世界とみなす考え方は、身近な例では「彼岸・此岸」という言葉にあるように、日常に深く刻み込まれ、私たちの生活に根差しているのだから。
古来から、日本人は死生観に境界という概念を導入してきた。
川の向こうや、海の向こうに死者の世界があると考え、畏敬の念を抱き、信仰の対象とした。沖縄にはニライカナイと呼ばれる、海の向こうには死者の国があるとする伝承がある。人々は死後、その島あるいは世界へと導かれ、豊かに幸せに暮らすのである。
基礎的な医療が発達していなかった時代において、人の死は身近なものであり、であるがゆえに何らかの障壁、すなわち川や海という境界を必要としたのかもしれない。
三途の川を現代では何が代用しているか
一方で、現代においては家で亡くなる人の数は、昔と比べ物にならないくらい少なくなっている。つまり三途の川が果たしていた境界としての機能を、今度は救急車や集中治療室(ICU)、あるいはホスピスなどが多層的に担っているのかもしれない。
いずれにしても、命が消えるときに何らかの境界を超えるという感覚自体は消えていない。死生観の根底には、死と生の境界線を明確に捉えたいという人間の欲求が隠れていて、そこにこそ三途の川は静かに流れているのかもしれない。