明治以降の日本の大都市圏では、火葬をタブー視する思想もあった江戸時代に比べ、火葬率が上がった。そして、この時期に率先して火葬を選択した人々の中には実は、プロテスタント諸派のキリスト教の信者が、一定数いたふしがある。
キリスト教では「故人は死後の楽園で肉体を持って復活するという信仰があるため、故人の肉体が失われる火葬はタブーとされる」などといわれる。しかし、実際にはこの信仰も、宗派や時代・国や民族などによって、まちまちである。
プロテスタントの教派団体「救世軍」の山室軍平は献体をしていた
中でもプロテスタント諸派は(こちらも、信者たちの民族的・文化的な背景により差はあるが)、キリスト教の様々な宗派の中でも、特に近代以降は、比較的火葬や散骨などをタブー視しない傾向がある。近代日本で積極的に火葬を希望した人々の中に、プロテスタント諸派の信者が一定の割合でいたのは、一つには、そのためもある。
例えば、プロテスタントの一派である万国救世軍の、いわば日本支部である日本救世軍の関係者の例がある。彼ら日本救世軍関係者の中には、明治末〜昭和初期に亡くなった時に火葬された人物も、複数いた。そして、ことは火葬に限らない。大正〜昭和戦前期の日本救世軍のリーダーの一人であった山室軍平は、自分の遺志で、亡くなった時に、東京大学医学部に現代でいう献体をしている。
このように、当時のプロテスタント信者の中には、率先して火葬や献体を希望し、実現した人々が一定数いたのだった。
中国でも同様の例があった
更に言うと、19世紀半ばの中国で15年近く続いた武装蜂起「太平天国の乱」の際にも、ある意味で似た例が見られる。この武装蜂起の指導層の人々は、プロテスタントに思想的影響を受けていたが、蜂起軍のルールの一つに、「身分や老若男女を問わず、死者は棺に入れず埋葬すること」というものがあった。この「棺禁止令」には複数の理由があるが、一つには、「すぐに天国に行く時には棺は必要とされない」という信仰が、大きな理由であった。
プロテスタント諸派では(1)故人の魂は死の瞬間に、肉体を離れて死後の楽園に到達する、(2)死後の楽園で復活した時の故人の肉体は、生きていた時の肉体とイコールとは限らない、という信仰が強い傾向にある。
火葬や散骨などを余りタブー視しない傾向もそのためであり、近代日本のプロテスタントの人々の中に、率先して火葬や献体を希望した人物が複数いたのも、一つにはこの信仰のためである。その意味では、この近代以降の世界各地でのプロテスタントの人々の、火葬・散骨・献体などに比較的抵抗感を持たない傾向は、太平天国の「棺禁止令」とも、共通点があるといえよう。
そして、「故人の魂は、生前の肉体に宿るとは限らない」とする信仰は、そのまま、当時の日本での火葬を支える信仰とも共通点があった。今では余り知られてはいないが、1950年代初頭までの日本では、火葬が盛んな地域では、「故人の魂は、遺体には宿らない」という考え方が一般的であった。
参考文献:吉屋信子全集〈12〉、 民間信仰、 神の子洪秀全 その太平天国の建設と滅亡