現代でいういわゆる「無縁仏」の概念は、実は江戸時代以降に作られた概念であった。
中世の日本、特に東日本では不特定多数の死者を弔う名目で石碑が多く建てられたが、こうした石碑は文字通り全ての人の供養をするものであった。
当時の日本では、現代とは異なり故人の遺体・遺骨にこだわる傾向は弱かった。そのため、その石碑の下に故人の遺体・遺骨がなくても、現代でいうところの「永代供養墓」の役割を充分果たしたのである。
そもそも遺骨や遺体と故人の結びつきが弱かった
そのため、この時代には後を弔うもののない死者「無縁仏」の概念は、出てきようがなかった。
中には、石碑の建つ場所への分骨による遺骨の埋葬の例もある。しかしそれは遺族が墓参りをするためではなく、一種の「聖地への納骨」であった。
ところが近世に入ると、庶民階級の人々も個々人あるいは夫婦単位での墓を建てるチャンスが大幅に増えた。
その結果、墓と故人の人格が密接に結び付くイメージが生まれ、墓石の下の遺体・遺骨と故人の人格も結び付くものと考えられるようになった。こうして、故人の遺体や遺骨にこだわる傾向が育っていったのである。
お墓が普及するとともに、遺体・遺骨と故人の結びつきが強くなった
「草葉の陰で〜〜」という表現がある。
筆者はこの言葉を初めて知った頃、これは故人の魂が草むらに隠れているイメージの言葉だと思った。
しかし実際には、遺体・遺骨と一体の故人の魂が、墓の中からこの世を眺めているイメージの言葉だったのである。
この発想は、遺体・遺骨と故人の人格が結びつくものとされるからこそ、出てくるものである。
墓と故人の人格が結び付くものと考えられるようになると、全ての人を弔う石碑は、具体的な故人を思い出すことにはつながらないとされた。その結果、こうした形の信仰は忘れられていった。
「お墓に入る資格がない」とみなされた死者が無縁仏の始まりだった
個人単位や夫婦単位の墓はだんだん数が増えていき、遂には「先祖代々の墓」として一つにまとめられるようになった。
様々な理由でこの「先祖代々の墓」に入る資格がないとみなされた死者が、現代的な意味での「無縁仏」の始まりであった。