「盆に、地獄の釜の蓋が開いて先祖の魂がこの世に戻ってくる」や「あの世の川である三途の川の渡し賃としての六文銭」という話があるのはご存知だろうか。
これは、故人が一度「有罪」とされて地獄での刑を受けていることが前提とされているように解釈できる。
なぜここまで故人を「罪深い死者」として扱う信仰があるのか、筆者には大変不思議でならなかった。
地獄は極楽浄土に行く過程だった
しかし、実は決してこれは故人を「救いのない、罪深い死者」としてしまう考え方ではなかったのである。
結論を言うと、地獄での裁きは死後の楽園に行く過程の一つに過ぎないとする信仰が、過去の時代には存在したわけである。
事実、中世〜近世の様々な物語には、一度有罪とされ地獄で刑を受ける死者が改心して様々な形で再びこの世に戻り、良い行いによって最終的に救われるストーリーのものが結構ある。
また、近代以前に描かれた地獄絵図の中には、刑を受ける死者の中に、何人か手を合わせる穏やかな表情の人物が混じっているタイプのものがちらほらある。こうした人物は悔い改めたり、あるいは生きている人々の祈りのために救われた死者であるとされる。
更に、中世には死後の世界といっても楽園は「完全な別次元の世界」とされたのに対し、地獄はあくまで「この世の延長線上にある世界」とする世界観があったという指摘もある。そのためこうした「地獄からの生還物語」がイメージされやすかったともいわれる。
悪人は地獄という単純な話ではなかったのかもしれない
つまり地獄での刑罰は永遠に続く拷問というわけではなく、この世の罪を清めて楽園に行く過程の一つに過ぎないとする信仰が、近代になる前には存在していたと言える。
「悪い人だから地獄に沈み、いい人だから救われる」という話では片付けられない考え方があったということである。