増加する家族葬の一方で、減少している葬儀の慣習がある。それは弔辞である。弔辞は故人に送る最後のメッセージでもあるが、今回はそんな弔辞について、意外に知られていないマナーや、故人を表わす世界のことわざをお伝えする。
弔辞は自ら志願するものだった
まずは意外に知られていない事実として、血縁関係などから弔辞をする人を決めるのではなく、希望者が喪主に弔辞をさせてほしいと頼むものである。てっきり、依頼されるものだと思っていた人がほとんどではないだろうか。
つまり、自ら志願するほどの関係性だからこそ、弔辞の内容も堅苦しい言葉で話さなくてはいけないということはない。ちなみに文量は、故人との思い出、故人へのメッセージ、そして最後に故人への冥福を3~5分ほど原稿用紙2~3枚分、便箋であれば大体4~6枚ぐらいになるだろう。読み終わった後は故人にお供えするのがいいだろう。
さて、自ら志願するほど生前したかった間柄であれば、最後に伝えたいメッセージはきっとたくさんあるだろう。逆にそれをいかに要約させるかのほう大変な作業に思えるが、次に紹介するのは、故人に対してただけでなく、聞いていただく方にも良かったと思ってもらえるような内容となるよう、世界のことわざを弔辞に入れてみることを提案したい。
「木はその実が多いほど頭を低く垂れる」
これは中東のことわざである。意味は、実力のある人ほど謙虚にふるまうということわざだ、人の実力を木になる実に例えているのが美しいことわざである。
このことわざを見るたびに私は桜を思う。桜は枝に何も付いていないときは上を向いているがその枝に蕾が付いてくると枝が垂れてくる。そして桜が満開になると枝は垂れる、私の近所にはその垂れた桜の枝で桜のトンネルができちょっとした名所になっている。満開の頭を垂れる桜かなという感じである。
「木はその実が多いほど頭を低く垂れる」ということわざは、とても日本人の美意識になじみやすい言葉であり説明がなくても伝わりやすい言葉だと思う。
ちなみに日本には「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざもある。ソクラテスの無知の知などのように日本人は謙虚な人が好きである。桜も稲も最良の時に頭を垂れるのである。
弔辞とは、故人への最後の贈り物
敢えてことわざを使わなくてもいいじゃないかという意見には私も同意する。
ただ弔辞は故人に送る最後の言葉でもあるし、複数の方が読まれる場合も多いので、同じような言葉が並んでしまうこともあるだろう。
同じような内容でも様々な言い方があり、それを意識して弔辞を読めば、故人を送るお葬式に心地よい緊張感が出るのではないかと思っている。
弔辞は故人への最後の贈り物なのだから。この文章が皆様の参考になれば幸いである。