「どうもありがとうね」――祖父の葬儀後、筆者は見知らぬ女性から声を掛けられた。
恐らく火葬を行っている最中に、葬儀場内を一人でふらふら出歩いていたのだったと思う。ふらふら出歩いていたというよりは、火葬炉の辺りにいたのかもしれない。
その場面を思い起こしても、筆者の両親や従兄弟の顔は思い浮かばないため、筆者以外の親族は控室にいたのだろう。
知らないおばあちゃんの正体は祖父の姉だった
亡くなった祖父や、祖母と同じくらいの年齢に見えたその女性は、筆者にとって「知らないおばあちゃん」であった。
当時小学生だった筆者がきょとんとしていると、その「知らないおばあちゃん」は「(筆者の祖父の)姉である」と話してくれた。
祖母の親戚とは面識があったが、何故だったのか祖父の親戚とはまるで面識がなかった。そのため、この祖父の姉とはこのときが「はじめまして」だったのである。そもそも祖父に姉がいたということ自体、そのときの筆者が知っていたのかどうかすらも定かではない。
葬儀で泣きじゃくった私と、それを見てありありがとうと言った祖父の姉
筆者の父や叔父が「こんなに泣くとは思わなかった」と驚いていた程、筆者は前日の通夜やその日の葬儀で目を真っ赤に腫らして泣きじゃくっていた。
そんな筆者を見て、祖父のお姉さんは「ありがとう」と声を掛けてくれたようだった。確かその「ありがとう」の前には「◯◯してくれて」という言葉があったはずなのだが、そこにどんな言葉が入っていたのかはさすがにもう覚えていなかった。
そして恐らくその後、何か二言三言でも言葉を交わしたような記憶もあるが、やはり細かいことに関する記憶は既に薄れてしまっていた。
葬儀に呼ぶなら、自分と同じだけの思いを持った人を呼ぶといいかもしれない
筆者の記憶が正しければ、この祖父の姉と顔を合わせたのはこのときだけである。それでもこのときのことは何故か強く印象に残っている。
「『ありがとう』と言われたことが嬉しかった」というのも、「いきなり話しかけられてびっくりした」というのも何か違うような気がする。
驚いた、というのはもちろんあったが、当時自身が何を思ったのかについてはまるで記憶がない。それでも「葬儀」や「火葬」という言葉を目にするとこのときの光景がふと思い出される。
あのとき祖父の姉は、弟の葬儀で泣きじゃくる筆者を見て何を、あるいは、どう思ったのだろうか――。
わざわざ「ありがとう」と話し掛けてくれたという点を考えて、そのときの筆者の存在が祖父の姉にとって、少しでも悲しみを和らげるものになれていたとしたら嬉しい限りである。
また祖父の姉がそのように感じてくれていたのならば、きっと亡くなった祖父も喜んでいるに違いない。
葬儀に呼ぶなら、故人に対する思いにばらつきがあるような葬儀ではなく、自分と同じだけの思いをもった人たちで送ってあげたいとおもった次第である。